【学校 廊下】
なんでもないある日、学校の廊下を歩いていると、近くの教場からドスの効いた声が聞こえてきた。
加賀
「この程度の問題すら答えられねぇなら」
「全員、幼稚園からやり直して来い」
カーン!という小気味よい音がして、兵吾さんの手から放たれたマーカーが訓練生の額に直撃する。
(うわぁ、相変わらず···)
(もしオレが訓練生だったら、あんな教官やだな)
まさかマーカーが武器になるとは思わなかったのか、訓練生たちのざわつきは治まらない。
兵吾さんが教場を出ようとするのが見えたので、見つからないように再び歩き出した。
(いつもより、眉間の皴が1本多かったな)
(触らぬ神に祟りなし···)
東雲
「今日は、あんまり近づかないようにしよ」
【教場】
昼休み、教官室に戻ると、よりにもよって兵吾さんだけが残っていた。
(うわ、言ったそばから出くわした)
(ツイてないな。目合わせないようにしないと)
こういうときはたいてい、理不尽な八つ当たりを受ける。
兵吾さんの方を見ないように自分のデスクに座ると、盛大な舌打ちが聞こえた。
加賀
「おい、あのクズはどこ行った」
東雲
「サトコちゃんですか?」
加賀
「さっきから探しているが、見当たらねぇ」
思い当たることがあり、カレンダーを見る。
思った通り、そこには印がついていた。
(なるほど···あの子のことで機嫌が悪いのか)
(補佐官のスケジュールすっぽ抜けちゃうくらい、お熱なのかな)
東雲
「2年生って、今日は課外演習じゃないですか?」
加賀
「課外演習···?」
ようやく兵吾さんも思い出したらしく、さっきよりもさらに大きな舌打ちが響く。
(オレのせいじゃないんだけど···)
東雲
「課外演習って、終日でしたよね」
加賀
「ああ···そういや、演習先から直帰だったな」
(ってことは、この不機嫌は今日一日ずっと続く、と···)
そう確認して、改めて今日は関わらないようにしようと決めた。
【焼肉店】
(···そのつもりだったんだけど)
室長に誘われて、学校近くに新しく出来た焼肉屋へとやって来た。
(こういうときの、上司の誘いは断れない風潮、どうにかなんないかな)
(まあ兵吾さんと室長なら、そこまで気は使わないけど)
さっきまでイライラ全開だった兵吾さんは今、トング片手に肉を焼いている。
さすがに、室長の前では大人しくなるらしい。
難波
「悪いなー。加賀にやらせちゃって」
東雲
「さっき訓練生にマーカー投げてた人とは思えませんね」
加賀
「······」
睨まれたものの、室長がいる手前、いつもの勢いがない。
塩キャベツを食べながら、室長のために肉を焼く兵吾さんを観察した。
難波
「そういや今日、2年生は演習だろ?」
加賀
「らしいですね」
難波
「なんか学校が静かだもんな」
「氷川、頑張ってるかねぇ」
加賀
「······」
(···兵吾さんを大人しくさせられるのって、室長くらいじゃないの)
さっきとは大違いの態度に感心していると、再び兵吾さんに睨まれた。
加賀
「こういうのは、年少者がやるもんだろ」
東雲
「すみません。兵吾さん、さっきからトング離さないから」
兵吾さんをからかいながら、なんとかその日をやり過ごす。
面倒なので、上司の機嫌が早く直ってくれることを祈るばかりだった。
【教官室】
翌日、仕事に行くのが少し億劫だった。
(兵吾さん、今日は機嫌直ってるといいけど)
(あれが毎日だと、困るんだよね)
教官室に、兵吾さんの姿はない。
でもオレが席に座るとすぐ、教官室のドアが開いて兵吾さんが入ってきた。
東雲
「おはようございます」
加賀
「ああ」
その表情はいつもと同じように見えて、よく見ると眉間の皺が1本減っている。
(何かいいことでもあったのかな)
(まあ、機嫌さえ直ってくれればなんでもいいんだけど)
加賀
「歩、昨日渡した書類のデータ化、済んでるか」
東雲
「ええ、終わってますよ」
内心、やれやれと肩を竦めながら兵吾さんにデータを渡す。
とりあえず、理不尽に八つ当たりされる時間は過ぎ去ったようだった。
【廊下】
その日、モニタールームへ向かうために歩いていると、廊下の角で誰かにぶつかりそうになった。
サトコ
「わっ、東雲教官、すみません!」
東雲
「キミか···」
サトコ
「なんですか?」
東雲
「なんでもないよ」
「昨日の課外演習、どんなミスしたの?」
サトコ
「なんでミスすること前提で話すんですか···私だってちゃんとやってるんですよ」
「···ちょっとだけ、千葉さんに迷惑かけちゃったんですけど」
東雲
「全然ちゃんとできてないじゃん」
いつものように彼女をからかい、すれ違う。
その時、微かに覚えのある香りがした気がした。
(今の、サトコちゃんのシャンプー?)
(···ああ、兵吾さんと同じ匂いなのか)
ということは、どうやら昨日の夜はそれなりに楽しんだらしい。
兵吾さんの眉間の皺が減っている理由が、分かった気がした。
(案外わかりやすいんだな、兵吾さんって)
(···兵吾さんを大人しくさせられるのは、室長だけだと思ってたけど)
もしかして、サトコちゃんは室長以上なのかもしれないと思う。
(だとしたら、すごいよね)
(あんな女の子が、猛獣みたいな人の機嫌を左右するって)
服従させているようで、実は兵吾さんのほうが彼女に参っているのかもしれない。
そんな面白いことを考えて思わず笑いそうになり、そっと口元を押さえたのだった。
End