勢いよく起き上った私は、渾身の力を振り絞って叫んでいた。
サトコ
「かっぱのおばけー」
「だ‥ぞ‥?」
(‥あ、あれ?)
サトコ
「ええと‥教官‥?」
東雲
「なにしてんの」
サトコ
「あ、その‥」
「人が入ってきたから‥泥棒かな‥と‥」
(あ、マズイ‥また眩暈が‥)
ぐらりと傾いた身体を、教官が受け止めてくれた。
東雲
「‥なにこれ」
「熱上がってない?」
サトコ
「そ、それは‥」
「たぶん興奮しすぎたせいだと‥」
東雲
「かっぱのおばけのフリをして?」
「バカなの、キミ」
サトコ
「うっ、すみません‥」
(‥ん?)
ふと、教官の腕にぶら下がっていた白い袋に目がいった。
サトコ
「教官、それ‥」
東雲
「ああ、薬」
「どうしようもないバカを、マシなバカにするための」
(うっ‥)
東雲
「あとは、まぁ‥」
「てきとうに」
(‥てきとう?)
東雲
「キッチン貸して」
「あと、起きてるなら電気点けてもいいよね」
程なくして、キッチンから様々な音が聞こえて来た。
(これは‥何かを洗ってる音‥?)
(あ、今、野菜か何かを刻んでる‥)
(これは‥鍋に水を入れてるよね‥?)
ふと、なぜか長野の実家を思い出した。
(なんか‥お母ちゃんがそばにいるみたい‥)
(子どもの頃、居間にいると台所からいろんな音が聞こえてきて‥)
(お母ちゃんが、夕飯の用意をしていて‥)
サトコ
「‥ぐすっ」
(あ、まずい‥涙‥)
(なんか私‥いろいろ心細かったのかな‥)
しばらくすると、再び教官がベッドわきへとやってきた。
東雲
「起きられる?」
「できたけど。玉子粥」
サトコ
「あ、はい‥」
(うわぁ‥)
器の中には、つやつやのお粥がよそってあった。
(すごい‥美味しそう‥)
(しかも、この流れは‥)
東雲
「はい、スプーン」
サトコ
「‥‥‥」
東雲
「‥なに、食べないの?」
サトコ
「あーん」
東雲
「‥‥‥」
サトコ
「教官、『あーん』です」
「あーん」
東雲
「‥バカなの?」
「熱で脳細胞やられたの?」
サトコ
「やられてません!」
「むしろ『常識』です!恋人同士の『お約束』‥」
「ゲホゲホゲホッ」
東雲
「ちょ‥」
「バカなこと言ってるから‥」
サトコ
「バカじゃありません」
「‥いや、もういっそバカでいいです。だから‥」
東雲
「‥‥‥」
サトコ
「教官~」
<選択してください>
サトコ 「今日だけ‥本当に今日だけでいいですから!」 東雲 「‥‥怖」 「必死過ぎ」 サトコ 「必死にもなりますよ」 「こんな機会、二度とないかもしれないのに」 東雲 「‥はぁぁ」
サトコ 「‥わかりました。もういいです」 東雲 「‥は?」 サトコ 「教官のケチ。いじわる」 「教官なんて嫌いです」 東雲 「あっそう。じゃあ‥」 (あああっ‥) サトコ 「嘘です、好きです!大好き‥」 「教官~っ」 東雲 「‥ハイハイ」
(こうなったら何度でも‥) サトコ 「あーん!」 東雲 「‥‥‥」 サトコ 「あーん‥あーん‥」 「あー」 (うっ‥) サトコ 「ゲホゲホゲホッ」 東雲 「ちょ‥」 「いつまでも口開けてるから‥」 サトコ 「す、すみません‥」 「でも、どうしても食べさせて欲しくて」 東雲 「‥‥‥」 「‥バカ」
教官は、露骨にため息をつきながらも、ようやくスプーンを手に取ってくれた。
東雲
「ほら。口開けて」
(きた‥!)
サトコ
「あーん‥」
「!!」
(熱っ‥めちゃくちゃ熱‥っ)
サトコ
「きょ、教官‥『フーフー』も‥」
東雲
「は?」
サトコ
「熱いので『フーフー』って‥」
東雲
「あっそう」
「じゃあ、自分で好きに食べれば‥」
サトコ
「嘘です!平気です!」
「熱いのが大好きです!」
東雲
「じゃあ、ほら‥」
サトコ
「‥熱っ‥うま‥っ」
「熱っ‥」
ちなみに教官が作ってくれた玉子粥は、薄味だけどほんのり甘塩っぱくて‥
なんだか優しい味がした。
そのせいか、食べているうちに心も身体も温かくなって‥
(‥いやいやいや)
(違うよね、これ‥ただ単に熱が上がっただけだよね?)
(たぶん、いろいろ騒ぎすぎたから‥)
再び布団に入って、ぼんやりと天井を見上げる。
さっきよりも揺れて見えるのはたぶん熱が高いせいだ。
東雲
「ほら、起きて」
「薬、飲まないと」
サトコ
「ハイ‥」
(あれ‥?)
(あのテーブルの上にあるの‥)
サトコ
「幻‥」
東雲
「え、幻覚?」
サトコ
「そうじゃなくて‥」
「幻の‥ピーチネクター‥」
東雲
「‥ああ‥」
「ドラッグストアにあったから」
(そうなんだ‥しかも5本もあるって珍しい‥)
東雲
「‥飲みたいの?」
サトコ
「え‥」
東雲
「いいよ。1本だけなら」
「桃缶のかわり」
サトコ
「‥桃缶‥?」
東雲
「食べなかった?寝込んだ時」
「桃の缶詰」
サトコ
「‥いえ、特には‥」
東雲
「そう。じゃあ、いらな‥」
サトコ
「い、いえ‥」
「飲みたい‥です‥ピーチネクター‥」
東雲
「‥いいよ」
「これ飲んだら」
錠剤を2錠、口の中に放り込まれる。
さらにペットボトルの口を押し付けられて‥
(う‥苦‥)
サトコ
「飲み‥ました‥」
「だからピーチ‥」
東雲
「もう少し待って」
「飲み合わせとかあるかもしれないから」
その間に、と教官はおでこに冷却シートを貼ってくれる。
さらに、ズラしていたマスクをちゃんと付け直してくれた。
東雲
「どう?具合は」
サトコ
「熱い‥です‥」
「身体‥中‥」
東雲
「‥だろうね」
ぴた、と教官が頬をくっつけてくる。
東雲
「熱い‥」
サトコ
「はい‥でも‥」
「気持ちいい‥」
東雲
「‥‥‥」
サトコ
「教官の頬っぺ‥冷た‥くて‥」
東雲
「じゃあ、これは?」
むに、とマスク越しに伝わってきたやわらかな感触。
(え‥)
(い、今の‥)
サトコ
「キ‥キ‥」
東雲
「キスだね」
「キミの大好きな」
サトコ
「で、でも風邪が‥」
東雲
「平気」
「マスク越しだし」
(あ‥)
再び、唇を押し付けられた。
むに、むに‥とマスク越しに何度も‥。
(あ‥なんか‥)
(やだ‥もどかしい‥)
つい、いつもの癖で唇を少し開いてしまう。
けれども、不織布に邪魔されて感触以上のものは楽しめない。
(うう‥なんで‥)
(なんか、これって‥)
東雲
「‥ダメ、無理」
(え‥)
サトコ
「ん‥っ」
マスクをズラされて、唇を貪られた。
いつになく激しいその感じに、理性がすぐさま警告を発する。
サトコ
「ダメです‥教か‥」
「風邪‥うつって‥」
東雲
「うつせば?」
「うつせるものなら」
サトコ
「ん、そんな‥」
執拗に口内を探られて、嫌でも息が上がってしまう。
動悸もすでに激しくて‥
キスの合間に、何度も何度も息がこぼれて‥
東雲
「‥熱」
「ほんと熱いね、キミのなか‥」
サトコ
「だったら離し‥」
「んん‥っ」
(苦し‥)
(それに身体‥沸騰しそう‥)
ようやく唇が離れて、私ははふはふと息を吐いた。
東雲
「‥すごい顔」
「そろそろ湯気でも出るんじゃない?」
(うう‥)
(だ、誰のせいだと‥)
頑張って睨んだみたけど、たぶんあまり効果はない。
だって今の私は、たぶん涙目になってるから。
東雲
「じゃ、今度こそ寝なよ」
「明日は無理しなくていいから‥」
(あ、帰っちゃう‥!)
立ち上がりかけた教官の服を、私はつい掴んでしまった。
東雲
「‥なに?」
サトコ
「あ‥その‥」
<選択してください>
サトコ 「帰っちゃいますか?」 東雲 「‥なんで?」 サトコ 「なんか‥そんな気がして‥」 「教官‥いなくなっちゃう気がして‥」 東雲 「‥バカ」 「決めつけるな。勝手に」 (え‥じゃあ‥)
サトコ 「もうちょっと‥だけ‥」 東雲 「‥‥‥」 サトコ 「あとちょっとだけでいいから‥そばに‥」 東雲 「‥ちょっとってどれくらい?」 「10分後、20分後?」 サトコ 「それ‥は‥」 東雲 「‥正直に言えば」 「こんな時くらい」 (教官‥)
サトコ 「キノコ‥」 東雲 「‥は?」 サトコ 「キノコの‥お粥‥」 東雲 「ないから。材料」 (う‥) 東雲 「だから他のことにして」 「お願いごとがあるなら」 サトコ 「え‥」 (ほんと‥に‥?) (だったら‥)
サトコ
「そばに‥いてくれますか?」
東雲
「‥‥‥」
サトコ
「今夜‥だけ‥」
「寝るまでで‥いいから‥」
服を掴んだままだった私の指先を、教官は優しく握りこんだ。
東雲
「‥遅い」
「早く言いなよ。こんなときくらい」
サトコ
「う‥すみません‥」
それでも、満ち足りた気分になった。
だって、ようやくお願い事を口にできたのだから。
サトコ
「あの‥教官‥」
「ありがとうございます‥」
東雲
「‥‥‥」
サトコ
「なんか‥私‥」
「今、すごく幸せで‥」
東雲
「‥‥‥」
サトコ
「それに、お粥‥」
「美味しかった‥」
東雲
「ああ‥あれ‥」
「ばあや直伝だから‥」
サトコ
「ばあや‥?」
(あ‥実家の‥)
東雲
「風邪をひくと、作ってくれて‥」
「それと、必ず桃缶が出てきて‥」
(そっか‥)
(それでさっき、「桃缶」って‥)
サトコ
「じゃあ、私‥覚えないと‥」
東雲
「え?」
サトコ
「玉子粥‥」
「教官が、風邪‥ひいたときのために‥」
東雲
「‥‥‥」
サトコ
「あと、桃缶‥も‥」
頭の中がふわふわして、瞼が重くなってくる。
肩が温かくなったのは、教官が布団をかけ直してくれたからだ。
東雲
「寝なよ。もう」
握りこまれたままの指先に、キスされた。
いつになく優しい眼差しに見守られて、私はゆっくりと目を閉じた。
(目が覚めたらピーチネクターを飲もう)
(それから、教官に今日のお礼を言って‥)
(玉子粥のレシピを聞いて‥)
でも、それらはすべて「明日」の予定だ。
今はただ‥
サトコ
「おやすみ‥なさい‥」
東雲
「うん‥」
「おやすみ‥」
(どうか明日には熱が下がりますように‥)
(そして、どうか‥)
笑顔で、教官に会いに行けますように。
Happy End