DAY3 :全部あげたい、全部ほしい
【スーパー】
店員
「あ、奥さん、今日は旦那さんもご一緒ですか!」
店長と一緒に行ったいつものご近所スーパーで、いつかの店員さんに声を掛けられた。
(ちょっと‥室長の前でまでなんてことを‥!)
サトコ
「いえ、ですから別に、私たちは‥」
慌てて否定しようとするが、店員さんは全く聞いていない。
店員
「いいですねぇ、新婚さん。しかも、奥さんの可愛いこと」
難波
「ハハ、それはどうも」
室長は否定も肯定もせずに、店員さんに話を合わせている。
サトコ
「すみません。この間も新婚の奥さんと間違われて、訂正したつもりだったんですが‥」
ちょっと室長の服を引っ張って、店員さんに聞こえないようにささやいた。
でも室長は、まったく気にする様子もない。
難波
「いいじゃねぇか、別に」
「サトコが褒められるのは嬉しいもんだ」
室長は白い歯を見せて本当に嬉しそうに笑う。
店員
「羨ましいほど仲が良いですねぇ」
難波
「いやぁ、それほどでも‥」
恥ずかしいけれど、甘酸っぱくも嬉しいやり取り。
まるで二人の将来を示唆しているようで、変な期待をしてしまう。
(こういうの、女子は嬉しいって分かってて‥ズルいな、室長‥)
【難波マンション ベランダ】
サトコ
「キレイな星ですね」
難波
「そうだな‥」
いつも通りに手料理を食べ、お風呂にも入った後で、二人並んでベランダで夜空を見上げた。
難波
「あれ、なんて言うんだっけか。ほら、柄杓型のやつ」
サトコ
「大熊座です」
難波
「大熊座?」
サトコ
「北斗七星とも言いますけど‥」
難波
「そうだ、北斗七星だ‥」
室長は嬉しそうに言って、ちょっと遠い目になった。
難波
「俺が小さい頃、あの星の形の傷が胸にある主人公のアニメが流行ってな」
「それがすげぇムキムキでカッコいい身体なんだよ」
サトコ
「へぇ‥」
難波
「俺もあんな身体になりたいって思ったのが、筋トレを始めたきっかけだな」
サトコ
「それで刑事に?」
難波
「おいおい、子どもの頃の話だぞ?」
「いきなりそこに結びついたわけじゃねぇが‥」
「でもまあ、結果的にはそういうことになるのかな‥」
小さな難波少年が一生懸命に身体を鍛えている図を想像して、自然と笑みが浮かんだ。
サトコ
「ふふっ、なんか、かわいいですね。アニメに憧れてって」
難波
「でも別に、その主人公は刑事でも何でもなかったんだぞ?」
サトコ
「え、そうなんですか?でもそこがまた、室長らしいです」
難波
「そうなのか?」
室長は複雑な笑みを浮かべつつ、改めてしみじみと北斗七星を見つめた。
難波
「考えてみると不思議だな」
サトコ
「?」
難波
「小さい頃から、あの星はずっとあの場所にある」
「あの時と、同じ形で‥」
「しばらく名前も忘れてたけど、こうして見ると、やっぱりいいもんだ」
「変わらないってのは」
サトコ
「‥そうですね」
(ずっと変わらないものか‥)
(それが私にとっての室長であり、室長にとっての私であればいいけど‥)
想いを巡らせながら過ごす、何でもない静かな時間。
隣には大好きな人がいて、それだけでもう、他には何もいらないと思えてしまう。
(いいよね。こういうの‥)
幸せに浸っていたら、いつの間にか少し肌寒くなっていた。
すぐ指を伸ばせば、室長の大きな手が隣にある。
(いいかな、触れても‥)
ちょっと迷ってから手を伸ばそうとすると、グイッと肩を引き寄せられた。
難波
「こっちこい」
サトコ
「!」
望んでいたよりもずっと大きな温もりが、私の身体を包み込む。
その心地よさに目を瞑ると、ほのかな煙草の香りが鼻孔をくすぐった。
(この香りは初めて‥)
(室長は銘柄にこだわらないから、よく香りが変わるんだよね‥)
その香りの隙間から漂うのは、お馴染みの柔軟剤の香り。
今ではすっかり、私の香りでもある。
(心も身体も香りも‥すべてがひとつになっていくって、なんだか不思議な感じ‥)
互いの境界が解けて混ざって、曖昧になって‥
まるで絵具みたいに二人だけの別の色が生まれる。
その思いつきがベッドの上の行為を連想させて、胸が勝手にドキドキし始めた。
心なしか、身体が硬くなる。
(どうしよう、一人で緊張し始めちゃった‥)
そんな私の緊張をほぐすように、室長は優しく髪を撫でた。
難波
「こうしていたいな。ずっと‥」
サトコ
「え‥?」
(ずっとって‥?)
今この瞬間が少しでも長く続くことを願っているのか。
それとも、将来までも見据えてのことなのか‥‥
室長の真意までは分からない。
(どっちもだったら嬉しいけど‥)
わざわざ確かめることもためらわれ、その代わりに
<選択してください>
思い切って腕にくっついた。
難波
「‥?」
「今日は甘えたい日か?」
そっと指を絡めてみた。
その手を、室長がギュッと握り返してくる。
でもそれだけじゃ足りない気がして、そのまま腕にくっついた。
難波
「今日は甘えたい日みたいだな」
室長をじっと見つめた。
難波
「‥?」
「なんか俺、変なこと言ったか?」
サトコ
「言ってませんよ!」
鈍いのか、それとも焦らされているのか。
もどかしくなって、思い切って腕にくっついた。
難波
「どうした、どうした‥」
「今日は甘えたい日か?」
サトコ
「‥‥‥」
室長は僅かに笑いながら私を見ている。
気恥ずかしくて、何となくそのまま目を伏せた。
(こたつが来た日は室長が私にくっついて来てたけど、今日は私が室長にくっつきたい日かも‥)
(仕事中に感じた距離なんて忘れてしまうくらい‥今日は、室長の傍にいたい)
でもこんな時にどう振る舞っていいのか分からなくて、じっと顔を見つめたまま、
黙って室長の腕をちょっと引いた。
室長は返事をする代わりに、おでこに軽くキスを落とす。
サトコ
「!」
難波
「あれ、違ったか?」
「お前の考えてること、割と分かってるつもりだったんだが‥」
室長は苦笑いしながら頭をかいた。
<選択してください>
サトコ
「残念でした」
難波
「なんだ、やっぱりハズレか‥」
サトコ
「いえ、違わなくないです」
難波
「ってことは‥アタリじゃねぇか」
「大人をからかうとはいい度胸だ」
室長はバツを与えるかのように、奪うようなキスで私の唇を塞いだ。
サトコ
「本当は何だと思いますか?」
難波
「うーん、さっきのがハズレだとすると、もう分かんねぇな‥」
サトコ
「ハズレじゃないって、言ったら‥?」
室長の顔に、ふっと笑みが浮かんだ。
難波
「悪いヤツだ‥」
サトコ
「‥違わなくないです」
難波
「え?」
サトコ
「ただ、室長には何でも見透かされてるみたいで‥びっくりして‥」
難波
「俺も不思議だ‥」
「どうしてこんなにお前のことが分かる気がするのか」
室長は優しい笑みを浮かべると、そっと私を抱き寄せた。
私を見つめる室長の瞳が、潤んだように熱を帯びている。
私は魅入られたように、その瞳から目が離せなくなった。
胸の鼓動の音だけが、静かな夜に響いていく。
(もっともっとくっつきたいな、室長に‥)
サトコ
「‥‥‥」
難波
「‥‥‥」
室長はまたも私の気持ちを悟ったかのようにそっと手を取ると、部屋への窓に手を掛けた。
難波
「おいで」
サトコ
「‥‥‥」
【寝室】
黙ったまま、明かりも点けずにベッドへと進む。
難波
「座って」
サトコ
「‥‥‥」
室長は私の両肩を挟むようにして、ゆっくりとベッドに身体を沈めさせた。
私はまるでマリオネットにでもなったかのように、室長にされるがままになっている。
室長の作り出している静かで大人な雰囲気に、完全に飲み込まれてしまっていた。
難波
「‥大丈夫か?」
硬くなっている私の顔を、心配そうに室長が覗き込んできた。
サトコ
「あ‥は、はい‥」
ようやく出た声は、自分でも思いがけないくらいにかすれて、か弱い。
そのことが、ますます私を混乱させた。
(ええと‥こんな時、何か気の利いたことを‥)
大人の女性なら何を言うのだろうかと必死に考えるが、
悲しいくらいに適当な言葉も会話も思いつかない。
そして、結局。
サトコ
「よ、よろしくお願いします‥」
場違いなほどにかしこまった言葉が出てしまい、室長が軽く笑った。
難波
「くくっ」
(よ、よりによって、なんてことを言ってるんだろ、私‥)
難波
「こちらこそ。よろしくお願いされます」
室長はちょっと茶化すように言いながら頭を下げる。
その姿を見たら、身体中を覆っていた緊張がふっとほぐれた。
その瞬間を待っていたかのように、室長は私を抱き寄せ、キスを落とす。
サトコ
「んっ、室ちょ‥」
難波
「‥はいはい」
私の言葉を遮るように、室長の指がそっと唇に触れる。
室長はさっきまでのおどけた様子とは一転、真剣な表情と声になっていた。
難波
「もうお遊びは終わりだ」
サトコ
「‥‥‥」
大切に大切に、慈しむようにキスを落としていく室長。
甘い息遣いが徐々に混ざり合い、新たな熱を放っていく。
口には出せなかったけれど、これこそがずっと待っていた瞬間だった。
(室長とひとつになって、溶けて行きそう‥)
室長のキスが深くなり、試すように私の舌をまさぐった。
サトコ
「‥っ!」
難波
「‥‥‥」
私の反応を確かめるように一瞬だけ動きを止めてから、室長は再び深く入ってくる。
深い淵に沈んでいくような感覚が広がり、目眩のような心地よさに溶けていく。
(どうしよう‥なんだかいつもの自分じゃなくなっちゃいそう‥)
必死に理性の最後のひとかけらにしがみつこうとする私を、室長の手が引き離した。
あれからどれほど経ったか、時計を見る余裕もなかった。
身体の奥の熱い部分が、壊れ物でも触れるような優しい愛撫ですっかり熱を帯びている。
頭の芯から指先まで痺れるほど、長い時間をかけて愛されて、
私はもう、どうしたらいいか分からなくなって、思わず身をよじった。
サトコ
「ん‥」
難波
「サトコ、手どけて」
サトコ
「ちょ、待ってくださ‥」
難波
「安心しろ」
「恥ずかしさなんか、すぐに忘れさせてやるから」
サトコ
「あ‥っ」
ひとつになる瞬間は、いつも唐突に訪れる。
電流が走ったように頭が真っ白になって、やがて安堵と幸福感が全身を包み込み始める。
浮き上がりそうな腰を室長が押さえてくれる。
私はギュッと目を閉じ、その恍惚の中に身を委ねた。
(いつもいつも、あんなに追いつきたくて、追いつけなくて、もどかしい想いばかりなのに‥)
仕事の上では、歴然たる階級差のある遠い存在の上司。
でも、ひとたび一人の男女に戻れば、こうしていつも一番に私を求め、愛してくれる。
(こんな風に抱かれると、いつも不思議なくらいにホッとする‥)
(それはきっと、室長がいつも私を見ていてくれて)
(私の不安や足りなさをちゃんと分かってくれているから)
(たとえ立場は違っても、心はいつでもそばにいるって感じさせてくれるから‥)
室長がゆっくりと身体を動かすたびに、霞む視界の中で様々な想いが喜びと共に込み上げる。
シーツに爪を立ててグッと感情を抑え込もうとする私の手を、室長が握った。
熱い両手の指を絡め、甘く痺れるような息と共に唇を塞ぐ。
何もかも違うこの人とすべてが交わった気がして、ただそれだけで嬉しかった。
(こんな風にこれからもずっと、心で寄り添える関係でいられたら‥)
(ずっと変わらずにそこにある、北斗七星みたいに‥)
サトコ
「私も‥」
ちょっと呻くような声が出て、室長が揺する動きを止めた。
難波
「‥?」
サトコ
「私も、ずっとこうしていたいです」
「室長の傍で、こうして‥」
難波
「‥‥」
「敵わねぇな、サトコには‥」
珍しく戸惑いをまとった声がして、室長は私の首筋に顔を埋めた。
そして私のすべてを手放すまいとするように、額にも、目にも、頬にも、胸にも、
あらゆる場所に唇を這わせていく。
難波
「離さないから」
サトコ
「え‥?」
難波
「お前のこの身体も、心も‥」
「全部俺のもんだ」
「絶対に、離さない」
サトコ
「室長‥」
嬉しくて嬉しくて、室長の頭を掻き抱いた。
(室長になら、全部あげたい。私の身体も心も、何もかも‥)
互いの想いを確認し合うようにもう一度見つめ合って、室長はゆっくりと私の肌をなぞる。
柔らかな胸に指を這わせ、腰のラインをゆっくりと辿りながら徐々に下へ降りていく。
完全に敏感になったその場所に、室長は再び身を沈めた。
難波
「‥はっ」
室長の眉間に皺が寄り、堪えているような表情に見下ろされる。
見たことのないような荒っぽい息遣いが漏れて、貪るように背中を掻き抱かれ‥
珍しく性急なその姿が、なんだかすごく愛おしい。
(全然年上の男の人なのに、不思議‥)
こんな風に思うのはきっと、年齢を感じさせなくなるほど心が近づいている証拠だ。
(これからはきっと、不安になっても大丈夫‥)
(室長をこんなにも近くに感じられるなら‥)
室長に激しく求められ、優しく抱きしめられながら、
私は心の中で何度も何度も室長の名を呼んだ。
その後、ふたりで甘いひと時の余韻に浸っていると‥