(東雲教官!?)
(どうして?人の気配なんて全然しなかったのに···)
あ然とする私を気にすることなく、教官は私の手を捕まえた。
東雲
「来て」
サトコ
「!?」
東雲
「早く立って」
(な···っ)
サトコ
「何するんですか、いきなり···」
東雲
「うるさい!」
「とにかく早く···」
その時だった。
消えていたはずの廊下の電気が、パッと点灯したのは。
(うそ、誰か来た···!?)
東雲
「机の下に潜って!」
サトコ
「え···」
東雲
「早く!」
サトコ
「は、はい···」
(って、なんで教官まで一緒に···!)
狭い机の下に、2人でぎゅうぎゅうになって隠れる。
(ちょ···なんで···)
(顔、近い···)
東雲
「我慢して」
サトコ
「···っ」
東雲
「少しの間だから」
切羽詰まったような掠れた声に、私は···
<選択してください>
サトコ
「はい···」
そのとたん、教官の背中がぴくんと跳ねた。
サトコ
「教官···?」
東雲
「話さないで」
「息···かかってくすぐったい···」
私は、無言でうなずいた。
(そうだ、今はこの場を乗り切らないと···)
返事の代わりに、教官の肩におでこをくっつけた。
東雲
「バカ、なにして···」
サトコ
「······」
東雲
「···バカ」
私を抱き寄せていた教官の手に、ほんの少しだけ力が込められる。
やがて足音が近づいて来て、天井の蛍光灯がパチリと点灯した。
(来た···!)
私はただ息を殺して、室内の音に耳を澄ませる。
カタン···
ガタガタ···ガタガタ···
(この音···棚の引き出しを開けてる?)
(だとしたら、こっちまで来ないかも···)
そう思った矢先、不自然なくらいピタリと物音が聞こえなくなった。
そして···
櫻井
「誰、そこにいるのは」
(この声、櫻井さん!?)
櫻井
「誰なの?隠れているのは分かっているのよ」
「早く出てこないと警備員を···」
東雲
「ちっ」
次の瞬間、教官は素早く机の下から顔を出した。
東雲
「ごめん、櫻井さん。驚かせちゃって」
櫻井
「社長補佐···!」
「どうしたんですか、そんなところで···」
東雲
「ちょっと探し物をね」
教官はゆっくり立ち上がって、櫻井さんに近づいていく。
東雲
「ほら、昼間ここに来たときにさ」
「万年筆のキャップを落としたみたいで···」
櫻井
「あら···じゃあ、私も探して···」
東雲
「いいよ、明日探すから」
櫻井
「でも···」
「···っ」
すごく不自然な感じで、櫻井さんの声が途絶えた。
(なに、今の···)
(なんか、まるで···)
心臓がバクバク嫌な音を立て始める。
案の定、次に耳に届いたのは、甘くうっとりとしたような櫻井さんの声だ。
櫻井
「社長···補佐···?」
東雲
「ごめん。いきなりこんなことをして」
「でも、なんか···」
教官が、まだ何か喋っている。
けれども、不思議なくらいその声が耳に入ってこない。
(今、たぶんキスしてた···)
(教官、櫻井さんに···)
気が付くと室内の蛍光灯は消え、2人ともいなくなっていた。
(早く、ここから離れなくちゃ)
そう思うのに、なかなか身体が動かなかった。
どうしても、指先ひとつ動かすことができなかった。
秘書課から出て、重い足取りで歩く。
気付いたら、かなり時間が経っていた。
(バカみたい···)
(何をヘコんでるんだろう、私···)
教官が彼女にキスしたのは、間違いなく私のためだ。
それくらい、ちゃんと分かっている。
(でも、なにもキスで足止めしなくたって···)
サトコ
「···ああ、もう!」
(割り切れ!ここはさっさと割り切らないと!)
(教官のおかげで、任務が成功したんだし!)
(そもそもあんなキス、私的にはノーカウント···)
加地
「···長野さん?」
サトコ
「!」
加地
「やっぱりそうだ。もしかして残業ですか?」
サトコ
「い、いえ···忘れ物を取りに来ただけで···」
あらかじめ用意しておいた言い訳が、かろうじて口から出て来てくれる。
すると、なぜか加地さんは私の顔をジッと覗き込んできた。
サトコ
「あ、あの···なにか?」
加地
「···いえ」
「忘れ物を取りに来たってことは、もう帰るところですよね?」
サトコ
「そうですけど···」
加地
「だったら、少しだけ僕に付き合ってください」
「ごはんでも食べに行きましょう」
【定食屋】
店員
「お待たせしました」
「『焼き魚定食』と『ミックスフライ定食』です」
皿の上のフライを見て、加地さんは「うわぁ」と声を上げた。
加地
「揚げ物ばかりですね。僕はその量は食べられないなぁ」
サトコ
「揚げ物、キライですか?」
加地
「いえ、そうではないんですけど···」
「30を過ぎたあたりから、どうも胃もたれしてしまって」
サトコ
「胃もたれって···加地さん、おいくつなんですか?」
加地
「34です。そろそろ加齢臭が気になる年頃ですよ」
サトコ
「えっ、そんな···大丈夫ですよ」
他愛のない話をしているうちに、昂ぶっていた心が少し落ち着いてくる。
(加地さんって、ほんと穏やかな人だな)
(話をしているだけで安心できるっていうか···)
内心ホッとしながら、エビフライに箸を伸ばす。
すると、なぜか加地さんは小さな笑い声を洩らした。
サトコ
「どうかしましたか?」
加地
「いえ、やっぱりエビフライなんだなと思って」
サトコ
「え···」
加地
「長野さん、社食でも必ずエビフライを最初に食べてたから」
「よっぽどエビフライが好きなんですね」
他愛のないその指摘に、治まりかけていた感情が再び喉元まで迫り上がる。
加地
「···長野さん?どうかしましたか?」
サトコ
「······」
加地
「長野さん?」
サトコ
「あ、その···」
「そうなんです!好きなんです、エビフライ」
「つい最初に食べちゃうくらい···」
加地
「······」
サトコ
「じゃないと、食べられちゃう···」
(泣くな···)
(こんなところでメソメソするな、私!)
それでも、先ほどの光景を思い出さずにはいられない。
(なんてちっちゃい人間なんだろう···)
(助けてもらったくせに、心から感謝できなくて···)
(他の女の人にキスしてたことに、こんなにこだわったりして···)
加地
「···泣けるうちは泣いた方がいいですよ」
サトコ
「···っ」
加地
「何があったのかは分かりませんが···」
「あなたは、さっきからずっと泣きそうな顔をしていました」
「でも、それはとても幸せなことなんです」
「人間、本当にどうにもならなくなると涙も枯れますから」
(加地さん···)
サトコ
「すみません、ありがとうございます」
(でも、泣いたらいろんなことが終わっちゃう気がする)
(私が、ちっちゃい人間だからこそ···)
タルタルソースをたっぷりつけて、私はエビフライにかじりついた。
ブラックじゃないエビフライは、本当に美味しかった。
【会議室】
それから数時間は、特に何事もなく時間が過ぎた。
庶務課の仕事をこなし、たまに地下の会議室に呼び出されて···
野方
「長野さん、お茶を淹れてくださる?」
女性社員A
「私は紅茶で」
女性社員C
「私は···」
サトコ
「ちょ···ちょっと待ってください。今、メモしますから」
(私、どこにいてもこんな感じなんだな)
(ここではパシリにされないだけマシだけど···)
サトコ
「···ん?」
ふと、先輩が見ている簡易アルバムに目が留まった。
(あの一番下の写真に写ってる人、もしかして···)
野方
「そういえば、長野さん」
「あなた、最近広報課の加地くんと仲が良いそうですね」
サトコ
「えっ」
女性社員A
「そうそう、よく一緒にお昼を食べてるわよね」
女性社員B
「あゆむんほどじゃないけど、加地くんもいいわよねー」
女性社員C
「穏やかで親切で、仕事もできて情報通よねー」
サトコ
「そ、そうですか」
(やっぱり加地さんって人気があるんだ···)
(そうだよね···いい人だもん)
野方
「それで、実際のところはどうなの」
「加地くんとお付き合いなさるつもり?」
サトコ
「そ、そんなことは···私はあゆむんひと筋ですし!」
女性社員A
「あら、本当に?」
サトコ
「本当ですよ!そもそも加地さんは私に興味ないかと···」
コンコン!
野方
「どうぞ」
加地
「お疲れさまです。広報課の加地ですが···」
その途端、室内が歓声に包まれた。
加地
「あの···一体何が···」
野方
「ちょうどあなたの話をしてたのですよ」
「あなたと長野さんが最近ずいぶん親しげだって」
加地
「僕と長野さんですか?」
「そんな···僕なんかが相手では彼女が気の毒でしょう」
女性社員A
「そんなことないわよ」
女性社員B
「そうそう!むしろ加地くんの方がスペックが高くて···」
(どうしよう。なんだかおかしな流れに···)
プルル···
(よかった、電話だ!)
サトコ
「すみません。私はこれで···」
野方
「あら、お昼休みはまだまだあるわよ」
サトコ
「でも、すぐに折り返し電話をしないといけないので。お先に失礼します」
会議室を出るなり、私は着信履歴を確認した。
(やっぱり、石神教官からだ···)
(こんな時間にかけてくるってことは、急ぎの用事だよね)
(ひとまず外に出て···)
東雲
「お疲れさま」
サトコ
「!」
東雲
「キミ、最近よくこのフロアに来てるよね」
「何してるの」
(まずい!)
私は、とっさにスマホを隠した。
サトコ
「え、えっと···サークル活動を···」
東雲
「サークル?」
サトコ
「はい。まぁいろいろと···」
「それじゃ、失礼···」
東雲
「···来て」
(えっ)
東雲
「いいから」
サトコ
「ちょ···腕痛いです!離して!」
「社長補佐···!」
東雲
「······」
教官は、私をエレベーターに押し込むと、すぐに最上階のボタンを押した。
サトコ
「何するんですか!」
東雲
「······」
サトコ
「これ、役員用のエレベーターですよね?」
「乗ったのがバレたら、また怒られて···」
東雲
「あそこで密会でもしてた?」
「加地寛人と」
(え···)
東雲
「聞いてるよ」
「最近、彼と仲良いんだってね」
「ランチなんていつも一緒で」
サトコ
「そ、それは···」
情報収集も兼ねて、とは言えない。
だって、教官はもう公安の人間ではないのだ。
サトコ
「そんなの、ただの偶然です」
「たまたまよく顔を合わせるだけで」
東雲
「じゃあ、プライベートで会ってるのは?」
サトコ
「!」
東雲
「2人で仲良く外食してるそうじゃない」
「それも偶然?」
サトコ
「···いえ」
「でも1回きりです!帰りにばったり会って···」
東雲
「······」
サトコ
「それで定食屋に連れて行ってもらっただけで···」
説明しているうちに、だんだんやりきれなくなってきた。
(何これ···浮気を疑われているってこと?)
(確かに加地さんと食事に行ったのはまずかったかもしれないけど!)
(それを···)
(それを言うなら教官だって···!)
サトコ
「だったら言わせてもらいますけど!」
「そっちこそ、何してるんですか!?」
東雲
「は?」
サトコ
「いきなり警察を辞めちゃうし」
「女子高生みたいなメールを送ってくるし」
「そのくせ、私のメールには返事をくれないし」
東雲
「······」
サトコ
「櫻井さんに、いっつもベタベタ触られてるし!」
「ついでにホテルから一緒に出て来たり、キ···キ···」
「キスとか···!キスとかしたりして!」
東雲
「······」
サトコ
「なのになんで私ばかり疑われるんですか!?」
「自分のことは棚上げですか!?」
「なんか、そんなの···」
「そんなの···っ!」
わぁぁっといろんな感情が溢れてきて···
私は、勢いのまま、教官の胸元を捕まえた。
そして、そのまま引き寄せて···
東雲
「ちょ···なに···」
「···んっ」
サトコ
「······」
東雲
「ん、ん···っ」
唇を押し付けるだけ押し付けてから···
私は力いっぱい、教官を睨みつけた。
<選択してください>
サトコ
「今の、消毒ですから」
東雲
「······」
サトコ
「この間、助けてくれたことには感謝しています」
「でも、もう二度と他の人とキスしないでください」
「あんなの、もう絶対にイヤです!」
東雲
「······」
サトコ
「もう教え子じゃないんで!」
「キスでも何でもしたい放題なんで!」
「これからは好きにさせてもらいますんで!」
東雲
「······」
サトコ
「ざまーみろ!」
東雲
「!?」
サトコ
「ざまーみろ!ざまーみろっ!」
東雲
「なんで、その言葉···」
サトコ
「いいんです!」
「今はざまーみろって言いたい気分なんです!」
タイミングよく扉が開き、私は小さな箱から飛び出した。
サトコ
「それじゃ、失礼します!」
【外】
最上階から階段を利用して、一気に1階まで駆け下りる。
そのまま外に飛び出すと、息も整わないまま私は石神教官に電話を掛けた。
サトコ
「お疲れさまです!氷川です!」
「お電話をいただいたようですが!」
石神
『あ、ああ···』
『···何かあったのか?』
サトコ
「いえ、なにもありません!普段通りです!」
石神
『それにしては···』
『···いや、いい、では用件を伝える』
『今週中に例の秘書が使っているパソコンのデータが欲しい』
『こちらが欲しいデータだが、まずは···』
石神教官の指示を、余すことなく手帳にメモする。
その文字はいつになく乱れ気味だ。
(もう知らない···教官のことなんてどうだっていい!)
(私は···私はこれから仕事に生きるんだから)
【秘書室】
決行日当日。
私は再び秘書室に忍び込むと、イヤモニに手を掛けた。
サトコ
「黒澤さん、氷川です。今、秘書課に到着しました」
黒澤
『周囲の確認は終えていますか?』
サトコ
「はい。特に問題はありません」
秘書課の社員は、役員研修の付き添いで全員熱海にいる。
つまり、先日のように教官や櫻井さんが現れることはほぼないはずだ。
黒澤
『ではIDとパスワードを読み上げます』
『IDは···』
言われた通りに入力して、最後にEnterキーを押す。
ディスプレイが予定通り切り替わり、私はすぐにメディアを装着した。
黒澤
『では、次の手順ですが···』
サトコ
「データのコピーですよね」
「大丈夫です。1人でできます」
黒澤
『ええと···でも、ちょっと面倒なファイルも···』
サトコ
「問題ないです。さんざん実習でやらされてきましたから」
(そう···この数か月間、教官に何度も叩き込まれてきた···)
東雲
「そこじゃない!」
「その手順だと遅くなるから!」
「そこで詰まったらこっち!」
「バカなの?」
「すべて暗記しろって言っただろ」
「現場でテキスト見ながら作業する気?」
(···そうだ、何度も何度も怒られて···)
(おかげで今、身体に全部しみ込んでいる···)
該当ファイルにアクセスして、どんどんメディアに落としていく。
全ての作業を終えたところで、私は再びイヤモニに手を掛けた。
サトコ
「黒澤さん、終わりました」
黒澤
『早っ、本当にもう終わりですか?』
サトコ
「はい。撤収して構いませんか?」
黒澤
『もちろんです。では例の場所に来てください』
サトコ
「わかりました」
【カラオケボックス】
30分後···
私は、待ち合わせ場所のカラオケボックスのドアを開けた。
黒澤
「『♪ハムと呼ばれて幾年月~だけどプリンが好きなのよ~』···」
「あ、お疲れさまです」
サトコ
「お疲れさまです。これが例のデータです」
黒澤
「ありがとうございます。一応中身を確認しますね」
「······」
「オッケーです。問題ありません」
「じゃあ、これ、石神さんに渡しておきますね」
サトコ
「よろしくお願いします」
黒澤
「それにしても、ほんと、お見事でしたね~」
「さすが、歩さんの愛弟子ですよ!」
(え···)
サトコ
「そ、そんな誉めすぎですよ」
「『愛弟子』どころか『デキの悪い教え子』で···」
黒澤
「そんなことありませんよ」
「今日だって立派に任務を果たしたじゃないですか」
黒澤さんはニカッと笑うと、荷物を手に立ち上がった。
黒澤
「じゃあ、オレは帰りますけど」
「歌いたいなら、歌っていってくださいね」
「それじゃ」
1人残された私は、背もたれに深々と寄りかかった。
(そっか···「愛弟子」か···)
(なんか···お世辞だったとしても嬉しいな···)
恋人としての教官には、言いたいことがいっぱいある。
昼間、浮気を疑われたことだって、正直まだムカついていた。
(でも、担当教官としての教官には、きっと一生頭が上がらない···)
入学して間もないころから1日3時間も勉強をみてくれた。
その後も厳しいことを言いながら、ずっと私を鍛えてくれた。
「公安刑事」がどういうものなのか、教えてくれたのも教官だった。
(できれば、卒業するまで教官でいて欲しかった···)
(もっともっと、色々教わりたかったなぁ)
1週間後、石神教官から連絡が入った。
石神
『先日のデータから、秘書と例の組織の繋がりが見つかった』
『流した情報の確認が取れ次第、潜入捜査は終了する』
『ひとまず、そのつもりでいるように』
サトコ
「わかりました」
(もうすぐ私「氷川サトコ」に戻れるんだ···)
少なくとも、このときはそう思っていたのだ。
あのメッセージをもらうまでは···
to be contineud