【個別教官室】
卒業試験が終わり、あとは式を待つだけになった穏やかな頃。
海司
「失礼します」
石神さんの教官室にやってきたのは、珍しいお客だった。
サトコ
「秋月さん!」
石神
「約束の時間、ちょうどだな」
海司
「ここに来るのに遅刻するほど、命知らずじゃないですよ」
約束···という言葉に、石神さんは秋月さんの来訪を知っていたことが分かる。
サトコ
「お久しぶりです」
海司
「お疲れ。もう氷川も卒業なんだって?」
サトコ
「はい。お蔭さまで卒業試験、合格できました」
海司
「来年には、公安に新人がドッとか···」
「そらさんがサイボーグ部隊ができるんじゃないかって言ってたっけ」
石神
「そろそろ本題に入れ。例の件は詰まったのか?」
海司
「ええ。これが来日日程と警護スケジュールです」
「協力を要請したい部分には、赤線を引いてありますから」
秋月さんが書類の束を石神さんに渡す。
サトコ
「警護課と連携しての任務ですか?」
石神
「要人警護の件で、協力要請が来ている」
サトコ
「その件、私は···」
石神
「お前は卒業間近で、式典の準備や最後の課題もあるだろう」
「今回は外している」
サトコ
「···わかりました」
(最後にもう一度、訓練生として任務を共にしたい気持ちもあるけど)
(もう一人前の公安刑事として、気持ちを切り替えていかなきゃいけないんだから)
そういった面でも、卒業間近の任務は避けているのかもと考える。
海司
「正式に配属が決まったら、世話になることもあるかもしれない」
「その時は、よろしくな」
サトコ
「よろしくお願いします!」
石神
「しばらく、任務の打ち合わせに入る。氷川、お前は資料庫の整理の方を進めておけ」
サトコ
「はい」
海司
「マルタイの到着時刻ですが···」
石神さんと秋月さんの打ち合わせが始まり、私は個別教官室を出る。
【教官室】
(一柳さんや広末さん相手だと、話を聞いてるだけでヒヤヒヤするけど)
(秋月さんだけだと平和なんだな)
石神班と警護課の桂木班といえば、丁々発止のやりとりで犬猿の仲と噂されることもあるけれど。
(いざって時の連携は、他では見ないほどのレベルの高さだし···)
(それぞれの相性とかもあるんだろうな)
静かな個別教官室を背に、私は資料庫へと向かった。
【寮 自室】
秋月さんが訪れたあと、石神さんはそのまま警視庁に向かい顔を合わせることはなかった。
(そういえば、週末のデート···まだ行先決めてなかったっけ)
今週の土日は二人とも非番で、どこかに出かけようかと話をしていた。
サトコ
「今、大丈夫かな」
時計の針は10時過ぎ。
仕事が長引いていなければ、家にいる時間だと思い携帯を手にとる。
(石神さん、いるかな···)
石神
『···はい』
サトコ
「あ、今、大丈夫ですか?」
石神
『ああ。もう家だ』
サトコ
「よかった。今日は早く終わったんですか?」
石神
『夜は桂木さんとの打ち合わせだけだったからな』
『9時過ぎには帰宅していた』
サトコ
「そうだったんですね。お疲れさまです」
石神
『お前の方は、どうだ』
サトコ
「私もいつも通りです」
「資料庫の整理についてまとめたものは、石神さんのデスクに置いておきました」
石神
『ご苦労だったな』
サトコ
「いえ。こうして補佐官としての仕事ができるのも、あと少しですから」
石神
『それで···何かあったのか?』
サトコ
「ええと···」
聞かれて、こんなふうに雑談から始めるようになってくれたことを実感する。
(前は一言目に『要件は?』だったのに···恋人っぽくなってるんだ)
些細な変化でも相手が石神さんだと思うと、その違いは大きく胸がいっぱいになってくる。
サトコ
「今週末、どこに出かけるか決めていなかったので、その件で···」
石神
『···すまない。週末は警護の関係で仕事になった』
サトコ
「あ···そうなんですね!」
(今日、秋月さんが話に来てたんだから。そうなるよね)
石神
『今度、埋め合わせをする』
サトコ
「大丈夫です!しばらくは忙しいんですよね?」
石神
『そういうことになるな』
サトコ
「わかりました。身体にだけは気を付けてくださいね」
石神
『ああ。お前も卒業まで、あと少しだ。諸々気を付けるようにな』
サトコ
「はい。それじゃ···おやすみなさい」
石神
『おやすみ』
電話を切り、暗くなった携帯の画面を見ながら小さく息を吐く。
(しばらく会えるのは学校だけでだけ···かな)
(いやいや、学校でも会えればいいほうだよね。本当に忙しいときは全然顔も見れないんだから)
少しでも、石神さんと会えますように···そう願いながら、その日は眠りについた。
【学校 廊下】
(会えない···)
(警護の仕事が始まって、かなり忙しいのかな)
あの電話の日から数日。
願いも虚しく、石神さんとは顔を合わせない日々が続いていた。
サトコ
「ふぅ···」
後藤
「ため息を吐いて、どうした?」
窓の外にため息を逃がした私に声をかけてきたのは、後藤教官だった。
後藤
「卒業前に、悩み事か?」
サトコ
「いえ、大丈夫です!」
「そういえば、桂木班との共同任務···後藤教官は参加していないんですか?」
後藤
「ああ、ヘルプで入ることはあるが、今回は主に石神さんが就いている」
「マルタイからの強い要望もあってな···」
サトコ
「え?」
一瞬、後藤教官の視線が気まずげに逸らされたように気がする。
サトコ
「あの···」
後藤
「いや、何でもない。週明けには警護の任務も終わる」
「それが終われば、またこっちにも顔を出せるだろう」
(来週には、また会えるんだから、それを楽しみに頑張ろう!)
【グラウンド】
後藤教官と、そんな顔をした矢先。
夜、自主練を終えて帰り支度をしていると。
(電話···?石神さんからだ!)
サトコ
「はい!」
石神
『今、大丈夫か?』
サトコ
「自主練を終えて、寮に帰ろうと思っていたところです」
石神
『そうか。卒業が決まっても、気が緩んでいないのは良いことだ』
サトコ
「石神さんの方はどうですか?忙しいって聞いてますけど···」
石神
『普段の任務とは勝手が違う部分もあるが···忙しいというほどじゃない』
『明日には学校にも顔を出す予定だ』
サトコ
「本当ですか?」
石神
『ああ』
(明日には会えるんだ!)
現金なもので、昼間にため息を吐いた気持ちはさっと消えていく。
(って、喜んでる場合じゃなかった)
(石神さんから電話が来たってことは、何か用件があるはず···)
サトコ
「すみません。話がそれてしまって。それで用件は?」
石神
『······』
サトコ
「石神さん?」
沈黙が流れ、携帯が切れてないか確認してしまう。
<選択してください>
サトコ
「どうしました?」
石神
『いや···』
石神
『······』
サトコ
「···用件忘れました?」
石神
『そういうわけじゃない』
サトコ
「そうですよね。石神さんに限って」
サトコ
「あの、聞こえてますか?」
石神
『聞こえている』
サトコ
「何か言いづらいことですか?」
石神
『······』
短い沈黙が流れる。
(どうしたんだろう?)
もう一度聞いてみようと、口を開いた時――
石神
『特に用はない。時間ができたから···かけてみただけだ』
サトコ
「え?めずらしいですね···」
(石神さんが用件もなく電話してくるなんて···)
石神
『じゃあ、これで···』
どこか気まずそうな声で電話を切ろうとする石神さんに、私は慌てて口を開いた。
サトコ
「待ってください!用件がない電話、大歓迎です」
石神
『···そうなのか?』
サトコ
「他愛のない話がたくさんできるってことですよね」
「それなら一晩中でも話してたいくらいです」
石神
『さすがに一晩中とはいかないが···少し話すか』
サトコ
「はい!」
(会いたい、声を聞きたいって···石神さんも思ってくれたのかな)
気持ちが募っていたこともあり、その日はいつもより長く電話をしていた。
【個別教官室】
翌日、電話で話していた通り、石神さんは教官室に顔を出した。
石神
「確か、このカバンに···」
サトコ
「探し物ですか?」
石神
「今朝、カバンに入れた書類がない。昨日の夜に、間違いなく入れたんだが···」
軽く眉をひそめながら、めずらしく石神さんがカバンの中を探っている。
(入れたつもりで···ってやつかな。石神さんでも、そういうことあるんだ)
石神
「···そういうことか」
サトコ
「え?」
突然、何か合点がいった顔で石神さんが探すのをやめた。
石神
「悪いが、俺の家まで行って書類を取って来てくれないか?」
サトコ
「はい、わかりました」
石神
「···今なら、問題ない時間だ」
サトコ
「時間?急いで持って来れば大丈夫ってことですか?」
石神
「···ああ。3時までに家に行って、戻ってきてくれ」
サトコ
「3時ですね。問題ないと思います」
石神
「頼む。それまでには、俺も会議から戻れると思う」
サトコ
「はい」
書類の所在を聞いて、私は石神さんの部屋に向かった。
【石神マンション】
予定通りの時間に石神さんのマンションに着くと――
女性A
「······」
(わ、綺麗な人···!)
外国の人だろうか、綺麗なブロンドの女性が石神さんの住むマンションから出てきた。
(あんな綺麗な人、住んでたんだ?)
(セキュリティもしっかりしたマンションだから、プロのモデルさんとかかな)
すれ違う時にふわっといい香りまでして、思わず目で追ってしまう。
(···って、見惚れてる場合じゃなかった!書類、取りに行かないと!)
【リビング】
サトコ
「お邪魔します」
誰もいない部屋に足を踏み入れた瞬間、違和感を覚えた。
(何だろう、このいつもと違う感じ···)
石神さんの部屋らしく几帳面に整っているし、水槽もいつも通り。
それなのに、何かが違うと直感に訴えてくる。
サトコ
「······」
(いや、余計なこと考えてる場合じゃない。早く、書類を···)
指示された場所に書類はあり、それをカバンに入れる。
そして帰ろうとすると洗面所の明かりが点けっぱなしであることに気が付いた。
(めずらしい···書類の件といい、疲れてるのかな)
【バスルーム】
明かりを消そうと洗面所に入ると、鏡の前に見慣れないものが置いてあった。
サトコ
「これって···」
細工が施された金色のキャップは、ブランド物の口紅に見える。
サトコ
「どうして、こんなものが石神さんの部屋に···」
(あ、口紅じゃなくて、新手のシェービングクリームとか···)
呆然としながらも、金色のソレを注視し思考を回転させ――
<選択してください>
(石神さんに聞いてみるのが、一番だよね)
書類と一緒に口紅をカバンにいれようとして、いざ触れようとすると躊躇いが出る。
(石神さんの部屋にあるものに勝手に触るのは、ちょっと···)
物が物だけに、その躊躇いは大きくなる。
(気になるけど、勝手に触るのはよくないよね)
いくら恋人でも···と、手に取ってみたい気持ちを、ぐっと堪える。
(とりあえず、写真に撮っておいて、あとで調べる?)
携帯を取り出しかけ、行きすぎた行為だと思い留まる。
(調べるって···そんなことしなくても、石神さんに聞けばいいんだよね)
視線を外すと、ふと腕時計が目に入り時間がたっていることに気付いた。
サトコ
「書類、届けないと!」
ハッと我に返った私は、思考を中断して急いで学校へと戻った。
【カフェテラス】
昨日、学校に戻ってからは、石神さんと話す機会はほとんどなかった。
(石神さん、書類受け取ってすぐに警察庁からの呼び出しで、学校を出ちゃったから···)
(あの口紅らしきものの正体、結局聞けてないままなんだよね)
新手のヒゲ剃りの可能性もあると、昨日一晩いろいろ考えていた。
(前にテレビで、USBで動く超小型のヒゲ剃りがあるって見たことあるし···)
常に頭の片隅で気にしながら、ランチのとろろ丼を口に運ぶ。
サトコ
「ここでランチ食べるのも、あと少しだね」
鳴子
「そうだねー···」
同じ定食を食べながら、鳴子がチラチラとテーブルに置いた携帯に視線を送っていた。
サトコ
「···誰かからの、連絡待ち?」
鳴子
「え?あ···うん、ちょっと気になることがあって」
サトコ
「気になること?」
鳴子
「昨日の真夜中に、学生時代の友だちから連絡が来てね」
「泣いてるから、どうしたのか聞いたら···彼氏の家で自分のじゃないピアスを見つけたんだって」
サトコ
「それって···」
鳴子
「浮気の気配ってことだよねー。彼氏の家に、自分以外の女のものが置いてあるって」
(自分以外の女のもの···)
私の頭に浮かんできたのは、石神さんの部屋にあった口紅らしきものだった。
to be continued