【教官室】
教官室で石神さんと会い、その手が触れ合った瞬間――
サトコ
「···っ!」
石神
「!」
雨の日の光景がフラッシュバックし、弾かれたように手を引いてしまった。
(あ···)
石神
「······」
サトコ
「す、すみません···!」
ちょうど差し込んだ日差しで、その瞬間の石神さんの表情は見えなかった。
私も一度視線を落とせば、顔を上げる勇気は出なくなる。
(こんなことするつもりじゃなかったのに···)
サトコ
「···じ、自分でできますので、気にしないでください」
石神
「···そうか」
短い答えを返し、石神さんは立ち上がる。
(きっと今、普通の顔、出来てない···)
昨日の件だけでなく、今の自分の反応を自分で受け止めきれない。
サトコ
「加賀教官、資料の整理終わったので、こちらに置いておきます」
石神
「氷川···」
サトコ
「失礼します!」
小さく石神さんが呼ぶ声がしたけれど、聞こえないフリで教官室を飛び出す。
(どうしよう···どうやって石神さんと距離を取ればいいか、分からなくなっちゃったよ···)
【裏庭】
サトコ
「はあ···」
教官室での一件から、何度ため息を零しただろうか。
(ため息って、底なしなのかな···)
(反射的にあんな態度をとっちゃうなんて、思ってた以上にダメージを受けてたのかも)
サトコ
「はあ···」
言った傍からため息を吐くと、近くで芝生を踏む音がした。
海司
「やっぱり氷川だった」
サトコ
「秋月さん···」
海司
「書類届けに来た帰り。こんなとこで体育座りして、何かの罰か?」
サトコ
「そういうわけじゃなくて···」
海司
「なら、元気がないんだな。ほら、これやるよ」
秋月さんが手渡してくれたのは、エナジードリンクだった。
サトコ
「ありがとうございます···」
「この間の傘の件から、秋月さんにはお世話になりっぱなしですね」
海司
「この間の件と言えばさ···」
秋月さんは気遣うように、少し距離を置いて座った。
海司
「石神さんがマルタイといた話···」
サトコ
「は、はい」
(今日は心の準備をしていない話が多い···!)
内心ドキッとしながらも話の続きに耳を傾ける。
海司
「帰国予定だった便が急きょ欠航になって。帰国が1日延びたんだって」
「その予定外の日の警護に石神さんが呼び出されたそうだ」
サトコ
「石神さんが警護に···」
海司
「普通なら認められないけど、イレギュラーな事態だったし、向こうの立場の強さもあったりで」
「警察全体から圧力がかかって、石神さんになったと···」
サトコ
「そうだったんですね···」
海司
「帰国が伸びたことは極秘扱いだったから、石神さんも有休ってことにされたらしい」
(石神さん、大変だったんだ···)
“警察全体からの圧力” という言葉に、その苦労を知る。
(それほど大事な警護対象だったんだ。一国のプリンセスなんだから、当然か···)
(それを考えれば、石神さんの部屋にいたことも、キスのことも···些細な問題に思える···かも?)
サトコ
「あの、そのことを教えてくれるために、わざわざ···?」
海司
「勘違いだったら、悪いんだけど」
「あの時の氷川、何かショック受けてるように見えたから」
サトコ
「そ、そうですか···?」
海司
「サイボーグな上司の思わぬ一面を見たせいかな···と思ってさ」
「けど、今回は事態が事態だから···仕事だからこそ、避けられない事態もあったんじゃないかって」
サトコ
「そうですよね···」
海司
「とにかく、悩んでることとかあるなら、石神さんに直接言えよ」
「あの人なら、どんな問題でも理路整然と答えて解消してくれるだろ」
サトコ
「秋月さんのなかの石神教官のイメージって、そんな感じなんですね」
海司
「氷川は違うのか?サイボーグって呼ばれるくらいだしな···」
<選択してください>
サトコ
「言われるほど、石神さんはサイボーグじゃないですよ」
海司
「近くで見てると、また違うんだな」
サトコ
「そういうものじゃないですか?」
「SPの皆さんのイメージも、公安側と警護課の中では違いそうですし」
海司
「確かに、人の印象ってのは立場によって違うか」
サトコ
「意外と柔らかいところもありますよ?」
海司
「そうなのか?想像つかないな。具体的に、どんなところが?」
サトコ
「そう言われると難しいんですけど···」
海司
「そっか。でも、氷川がそう感じるってことは、そういう部分があるんだろうな」
サトコ
「まあ、大体は合ってますけど···」
海司
「やっぱり、氷川もそう思ってるのか?」
サトコ
「いえ。今のは傍から見れば、そう見えるだろうなって思うだけです」
「私から見れば、石神教官はちゃんとした心を持ってますよ」
海司
「そうか」
海司
「とはいえ、当たり前だよな。どう言われてても、あの人も人間なんだから」
目を閉じた秋月さんが、小さく笑う。
海司
「ま、石神さん相手じゃなくても、人と人は顔を合わせて腹割って話すのが一番ってことだ」
「公安ってなると、そうもいかねぇんだろうけど」
サトコ
「仕事はそうですけど···その気持ちは忘れないようにしたいです」
海司
「氷川とは、いい仕事が出来そうだ。いつか仕事て組むの、楽しみにしてる」
サトコ
「ご期待に応えられるように、邁進します!」
腰を上げた秋月さんを見送り、私は差し入れのエナジードリンクを一気に飲む。
(石神さんを信じてる···その気持ちだけは変わらないんだから)
サトコ
「ちゃんと話しをしに行こう!」
立ち上がると、石神さんを探すことに決めた。
【石神マンション】
(もう学校にはいなかったから、家まで来てみたけど、まだ帰ってないみたい)
オートロックで呼んでも返事がなく、私はマンションの前で待つ。
(今日は合えるまで、待ってよう)
覚悟を決めて、どれほどの時間が過ぎただろうか――
石神
「サトコ?」
サトコ
「あ、おかえりなさい···!」
聞こえてきた声に顔を上げると、待ち焦がれた人が立っていた。
(うん···やっぱり私はなにがあっても石神さんが好き)
昼間、離してしまった手をぎゅっと固めながら、笑みを作る。
石神
「······」
サトコ
「すみません。待ち伏せみたいなことをしてしまって」
「話したいことがあって···」
石神
「······」
石神さんは何も言わずに私の前まで歩いてくる。
(石神さん?)
真っ直ぐに視線が絡み、こんなふうに見つめ合うのは、どれくらいぶりかと思う。
(会えなかったっていうのもあるけど、私がちゃんと見てなかったから···)
石神
「···冷たい」
伸びてきた手が、一瞬の迷いの後に頬に触れてくる。
サトコ
「あったかいです···」
今度こそ、私はその手をしっかりと握り返した。
サトコ
「あの、昼間は···」
石神
「話はあとだ。とにかく、中に入れ」
サトコ
「はい···」
そのまま肩を抱かれ、私は石神さんの部屋へと上がった。
【リビング】
(いつもの石神さんの部屋だ···)
あの日に感じた違和感はなく、香水の匂いもしない。
石神
「···何があった」
お茶を淹れてくれた石神さんが、向かいではなく隣に腰を下ろす。
昼の件を問われていることとわかり、覚悟を決めて口を開く。
サトコ
「昨日、見てしまったんです。警察庁近くの駅前で」
「···石神さんがマルタイのプリンセスとキスしているところを」
「それから···」
石神
「それから?」
サトコ
「石神さんの部屋に書類を取りに来たとき、洗面所の電気が点いていたので···」
「見に行ったら、口紅が置いてあるのを見ました」
石神
「···そうか」
石神さんの視線は逸らされることなく私に向けられている。
サトコ
「彼女がマンションから出てくる姿も見てしまってるんです」
「あの人は···」
石神
「お前は本当に未熟だな」
サトコ
「え···?」
(未熟って···)
予想していなかった答えが返ってきて、思わず言葉に詰まった。
(どういう意味?嫉妬するのが未熟ってこと?)
(石神さんから見れば、そうかもしれないけど···)
彼らしい言い方だとは思っても、この数日抱えていた気持ちを考えれば素直に反省できない。
サトコ
「それでも、私なりにいろいろ考えて···」
「少しでも、きちんと話そうと···!」
石神
「そういう問題じゃない。そもそも、お前は観察力が足りない」
サトコ
「観察力···?」
石神
「そもそも彼は――」
サトコ
「そういう石神さんだって、彼とキスまでしなくても···」
自分で言った言葉に思わず声が止まる。
サトコ
「え?彼···」
石神
「ああ、彼だ」
サトコ
「!?」
(あの綺麗な女性が男だったって言うの!?)
<選択してください>
(さすがに、それは···)
サトコ
「冗談言わないでください!」
石神
「ジョン=ハウゼリッヒ5世――この名で調べれば、冗談かどうかわかる」
きっぱり言い切る石神さんに、それが決して冗談ではないことがわかった。
サトコ
「本当に···男性なんですか?」
石神
「こんなつまらない嘘を吐く気はない」
(そう言われても···)
(いくらなんでも、それは···)
サトコ
「それで誤魔化してるつもりですか?」
石神
「俺がそんなつまらないことをすると思うのか?」
サトコ
「う···」
(本当に男の人だったんだ···?)
(だけど···)
サトコ
「意味がわからないんですが···」
石神
「言った通りだ。お前が女だと思っていた相手は、男だということだ」
あらためて説明されても、簡単には頷けない。
(だって、あんな綺麗な人が男性だなんて···)
(それに···)
サトコ
「一国の王子様が、どうしてあんな恰好を···」
石神
「他人の趣味について、とやかく言う気はないが···」
「彼は他国を訪れるために変装しているうちに、女性の恰好をすることが趣味になったそうだ」
サトコ
「つまり···プリンセスじゃなくて、プリンスだったってことですか···?」
石神
「そういうことだ」
サトコ
「そんな···じゃあ、あのキスは···?」
石神
「そもそもキスなどしていない。お前にも眼鏡が必要か?」
サトコ
「それは、その···正確に言えば、顔が近づいたところまでしか見てないです···」
石神
「そんなことだろうと思った」
「過剰だと思うが、ハグや頬にキスすることが、彼にとっての親愛の情の示し方らしい」
「国が違えば、意識も文化も変わる。そこに合わせるのは、仕事であり礼儀だと考えている」
サトコ
「はい···」
あまりの正論にぐうの音も出ない。
(まさに秋月さんの言う通り···)
海司
「あの人なら、どんな問題でも理路整然と答えて解消してくれるだろ」
(石神さんの場合は、悩む暇があったら)
(とにかく話した方がいい···今後のためにも肝に銘じておこう)
サトコ
「···すみませんでした」
謎がすべて解け、石神さんに謝ると···
石神
「なぜ、謝る?」
サトコ
「それは、私が未熟だから···」
石神
「確かに未熟だが、謝る必要はない」
サトコ
「どうしてですか···?」
石神
「仕事で失敗した時は反省点を追求し、改善する必要があるが···」
「恋人のときも、それが必要か?」
問われ、私は小さく口を開く。
サトコ
「···教えてください」
石神
「恋人のときは正誤を気にせず。真っ直ぐに気持ちをぶつけてこい」
サトコ
「はい···わかりました」
石神
「···不要な心配をかけて悪かった」
サトコ
「石神さん···」
こちらに身体を向けた石神さんが私の方に手を伸ばしてくる。
石神
「抱きしめてもいいか?」
サトコ
「もう、聞かなくても···」
石神
「事情があろうと、心配をかけたという点では、俺に非がある」
「それに···お前相手には、望まれて抱きしめたい」
眼鏡を外しながら話す瞳が、一瞬だけ揺れたように見えた。
(手を払ったりして···石神さんも気にしてたのかな···)
周りはよく彼をサイボーグだなんて言うけれど。
私には、とてもそう思えない。
サトコ
「抱きしめてください」
石神
「······」
答えると、腕が回り引き寄せられた。
頬が胸につくと、いつもより速い鼓動が彼も感情のある人間だと教えてくれている。
石神
「キスをしてもいいか?」
サトコ
「え?」
普段は聞かれないことを聞かれ、その顔を見上げる。
石神
「このままベッドに連れて行っても?」
サトコ
「ど、どうして、そんなこと···」
口元に浮かんでいる微笑みは、どこか意地悪だ。
石神
「嫌がることはしたくないからな」
サトコ
「···ちょっと、怒ってます?」
石神
「そういうわけじゃない」
微笑を苦笑に変えながら、石神さんは私を抱き上げる。
石神
「ただ···」
サトコ
「ただ?」
石神
「お前の気持ちを、声で聞きたいだけなのかもしれない」
そのひと言で、石神さんも自分の気持ちを持て余しているのが伝わってきた。
同時に彼への愛しさが込上げてきて、首に腕を回して抱きつく。
サトコ
「今夜は···離れたくないです」
石神
「離すつもりはない」
言葉にするから、より深く響く想いというものもあって。
その日は互いの想いをあらためて伝え合うように吐息を絡め合った。
Happy End