身支度を整えながら、荷物を確認する。
退院したばかりということもあって、今日は持ち帰るものが随分と多い。
靴を履き、鍵に手を伸ばしかけて、その必要がないことに思い当たった。
だって、背後のベッドから、微かな寝息が聞こえているのだ。
(······熟睡している)
暗闇の中、むき出しの肩が白く光っている。
目が覚めたら、サトコさんはどう思うだろう。
置き去りにしたオレを恨むだろうか。
(まあ、恨むだろうな)
それだけのことをした自覚はある。
いや、「しようとしている」と言うべきか。
もちろん、今ならうまく誤魔化すことができる。
例えば「少しの間だけ恋人のフリをする」とか。
でも、そんな気にはなれない。
「卑怯だ」とか「不誠実だ」とか、そういう話ではなく···
(それじゃ、消えない)
(あの、まっすぐすぎる「好意」が)
ああ、そうだ。
オレは、彼女に嫌われたかった。
まぶしいような「好意」を向けられたくなかった。
だから今、ここを立ち去ろうとしているのだ。
彼女を初めて「見た」のは、桜の花が咲き始めた年度末のことだ。
東雲
「見て、コレ」
黒澤
「なんですか、いきなり···」
「履歴書?」
東雲
「違う。職務経歴書」
「どう思う?この経歴書の子」
黒澤
「どうって···」
平凡だと思った。
警察官によくいる、真面目そうで正義感の強そうな女性。
(でも、それじゃ面白くないし)
黒澤
「可愛い人ですね」
東雲
「···それだけ?」
黒澤
「ボブカットが似合ってます」
さらにふざけた解答を続けると、歩さんに「もういい」とぶった切られた。
(あれ、ご機嫌斜め?)
(それとも、もっと真面目な解答を期待していたとか?)
その答えが分かったのは、入校式の前日ーー
石神さんに、内密に呼び出された時だ。
石神
「まずは、これを」
(あれ、この経歴書って···)
石神
「首席入校者のものだ」
黒澤
「ああ、前に見ました」
「すごい経歴の持ち主ですよね」
石神
「本当にそう思うか?」
(···うん?)
石神
「県警に勤めたこともない、交番勤務の巡査だ」
「本当に、これほどの経歴の持ち主だと思うか?」
黒澤
「···それは···」
確かに、おかしいと言えばおかしい。
ただ、このテの経歴書を作成するのはたいてい本人ではない。
黒澤
「これ、彼女の推薦者が作成しているはずですよね?」
「だったら、ありもしないことをわざわざ書くわけが···」
石神
「そう思って、俺も調べてみたが」
「経歴の、特に賞罰に関する部分がかなり誇張されていることがわかった」
(おっと···!)
石神
「どういうつもりで、こんなものを提出したのかは分からないが」
「人事と通過してきた以上、こちらから突き返すわけにもいかない」
(ああ、そういうこと···)
そうなると、考えられる理由はいくつかある。
例えば「経歴に書きにくい特技がある」
あるいは「公安向きの資質があると判断された」など。
(でも、一番ありそうなのは、おエライさんの「コネ」だよなぁ)
(まぁ、ただの「ミス」の可能性もあるけど···)
黒澤
「で、オレは裏事情を調べればいいんですか?」
石神
「いや、それは俺が調べる」
「お前には、彼女の実力と資質を見極めてもらいたい」
(うん?)
石神
「近いうちに、お前と彼女を組ませる」
「そうすれば判断できるだろう」
(···なるほど)
黒澤
「つまり、オレが『ダメ』って報告したら、彼女は地元に強制送還ですね」
石神
「『強制』ということはない」
「あくまで『本人』に選ばせる」
(うわぁ···)
こういうの、なんて言うんだっけ?
「物は言いよう」で正解?
黒澤
「なーんか、アレですね」
「入校前から『退校秒読み』って感じ···」
石神
「そうとは限らない。残すことも考えている」
「『公安刑事』としての資質があるのなら」
(「資質」···ね)
【カフェ】
「公安刑事」になる経緯は、人それぞれだ。
歩さんのように「優秀さ」を買われた人もいれば、
後藤さんや周介さんのような「ワケあり」らしい人たちもいる。
例の彼女は「自ら志望して」ということになるのだろう。
なにせ「公安学校」へ入校するわけだから。
(ってことは、すごく向上心があるとか?)
(それとも、めちゃくちゃ正義感にあふれている感じ?)
そのどちらの場合でも、オレとは相容れそうになかった。
なにせオレには、最低限の向上心と正義感しかなかったから。
(あのときの···)
(あの言葉の「真相」さえわかれば、オレは···)
卓上で、スマホが震えた。
あらかじめセットしておいたアラームが、休憩時間の終わりを告げていた。
(さて、移動しますか)
この後の予定は、とあるセミナー会場付近での張り込みだ。
さらにその後、関連する宗教団体の信者と食事をすることになっていた。
(会うのは、この間の合コン以来だし)
(とりあえず今日は、雑談メインで様子を探るって感じで···)
???
「あああーっ」
いきなり、妙な叫び声が聞こえた。
驚いて振り向くと、スーツ姿の女性が歩道橋に手をついてうなだれていた。
(酔っぱらい?)
それにしては、特にフラついている様子はない。
大方、何か嫌なことでもあったのだろう。
そう結論付けて、オレは張り込み現場へ急ごうとした。
(···うん?)
再び足を止めたのは、見覚えのある女性が彼女に近づいて行ったからだ。
(あれって、例のセミナーのスタッフだよな)
念のため、電話をかけるふりをして耳を傾ける。
案の定、彼女はスーツ姿の女性を熱心にセミナーに誘おうとしていた。
(へぇ、こういうやり方で勧誘しているわけね)
(意外とありきたりというか、なんというか···)
もっとも、これでうまくいくとは思えなかった。
勧誘されているスーツ姿の女性は、明らかに迷惑そうにしていたからだ。
(ていうか、こっちのスーツの女性もどこかで見たような···)
(あの黒スーツ···それとボブカット···)
黒澤
「···あ」
かろうじて一致したのは、ここ数日何度か目にした証明写真だ。
(公安学校首席の···?)
(でも、今日って入校式だったんじゃ···)
他人の空似かもしれない。
けれども、本人の可能性も十分ある。
(本人なら、ここで助けるのは「有り」だよなぁ)
(今後、距離を詰めやすくなりそうだし)
もちろん、セミナー関係者に顔を覚えられるリスクもあった。
が、その点は今後変装することで、おそらく乗り切れるだろう。
(それじゃ、行きますか)
オレは、わざと大げさにふたりの間に割り込んだ。
黒澤
「ああっ、やっと見つけました!」
「アナタ、ボクの運命の人ですね!?」
結果として、この判断はいい方に転がった。
後に「正式に」彼女を紹介されたとき、ラクに距離を縮められたのだから。
【公安課】
黒澤
「ひとまず滑り出しはいい感じ···っと」
皆が出払っているのをいいことに、オレは鼻歌を歌いながら人事DBを確認した。
(氷川サトコ、長野県出身···)
(あ、オレと同じ歳じゃん)
(最終学歴は···ま、大卒だよなぁ)
(特技・剣道と水泳···)
黒澤
「ぷっ」
(石神さんと正反対じゃん)
(あ、でも石神さん、剣道はできるんだっけ···)
???
「何をしている?」
黒澤
「おわっ」
(やば、気付かなかった···)
(って···)
黒澤
「···なんだ、後藤さんじゃないですか」
「卑怯ですよ。気配を消して背後に立つなんて」
後藤
「お前が、のんきに鼻歌を歌っているからだ」
「それより今見ていたのは···」
黒澤
「サトコさんのDBです」
「オレ、明日『協力者』と会う約束があるんですけど」
「それに同行させることになっていまして」
後藤
「氷川を?」
黒澤
「はい」
後藤
「そうか···先輩としていい見本になれよ」
月並みともいえる励ましの言葉。
けれども、その言葉にはわずかなためらいが滲んでいた。
(···なるほど)
(気付いているってわけか、後藤さんも)
となると、周介さんもすでに気付いているのだろう。
石神さんが、彼女を疑っていることに。
(前途多難だなー)
もっとも、彼女自身もすでにいろいろ思うところがあるらしい。
昨日、会話を交わした時も···
黒澤
『氷川さんって首席入校者ですよね?』
サトコ
『一応そうらしいんですけど、実際は全然ダメで···』
『最初の潜入捜査も失敗したし』
『講義では、みんなが答えられる質問に答えられないし』
『小テストでも、私だけ赤点で』
『持久走でも、ひとりだけ追加で走らされて···』
自分であそこまで言うってことは、すでに落ちこぼれているのだろう。
(気の毒になぁ)
(これじゃ、オレが報告する前に自主退校···)
後藤
「いいところもあると思うんだ」
独り言のような後藤さんの言葉に、オレは「えっ」と顔を上げた。
後藤
「確かに、首席入校者としては疑わしい部分が多いが」
「それだけでは終わらない気もしている」
黒澤
「······」
後藤
「俺の勘違いなら、忘れてほしいが」
「もし、お前が氷川について何らかの報告を求められているとしたら」
「そのあたりのことも頭に入れておいてほしい」
後藤さんらしい意見だった。
(厳しくも優しい。そして誠実)
(まさに名前の通り)
黒澤
「やだなー、なんの話です?」
後藤
「······」
黒澤
「って言いたいところですけど」
「了解です、任せてください」
後藤
「···ああ」
(なーんて、返事をしてみたものの···)
翌日、現場同行終了後ーー
黒澤
「いやぁ、お腹すきましたねー」
「こんなときは、やっぱり炭水化物かなぁ」
サトコ
「······」
黒澤
「ああ、お疲れさまでした」
「どうです?レポート、書けそうですか?」
サトコ
「あ···はい······たぶん······」
(あららー)
同行前は気合十分だったはずの彼女は、今ではすっかりふさぎ込んでしまっていた。
おそらく「協力者」に対するオレのスタンスを、受け入れられないのだろう。
(ま、たしかに不誠実ではあるけど)
(あんなの「エゲつなさ30%」程度なんだけどなー)
とはいえ、このまま放っておくわけにもいかない。
それに後藤さんに頼まれてもいる。
黒澤
「サトコさん、ラーメンはお好きですか?」
サトコ
「えっ」
黒澤
「塩・味噌・しょうゆ···好きなラーメンはありますか?」
サトコ
「あ···ええと···どれでも···」
黒澤
「じゃあ、1杯食べてから帰りましょう」
(···ま、いちおう「フォロー」ってことで)
黒澤
「では、本日の労をねぎらって···」
「お疲れさまでしたー」
サトコ
「···お疲れさまでした」
ラーメンを待つ間、オレはオレ自身が教わったことを彼女に伝えた。
今日のやり取りは、公安部としては珍しくないこと。
任務のためなら、相手の「好意」にもつけこむこと。
協力者を「駒」以上に受け止めないこと。
そして···
黒澤
「自分は、絶対相手の『駒』にならないこと」
「そうじゃなければ、協力者を活かすことはできません」
彼女は反論しなかった
ただ、スラックスの生地を強く掴んでいた。
それこそ、くっきりとシワが寄るくらいに。
(···なるほど。納得できない、と)
真面目なのか、融通が利かないのか。
それとも、今回の件に関してだけ受け入れられないのか。
(判断が難しいなぁ)
やがて、注文していたラーメンが運ばれてきた。
ここの味噌はかなりうまいのに、彼女はしょぼくれた顔ですすっている。
(おーい、そろそろ頭を切り替えないと)
この仕事をしていると、理不尽なことは山のように起こる。
だからこそ、うまく頭を切り替えられるかどうかは、かなり重要だ。
(じゃないと、精神的にまいっちゃうんだって)
結論を出すのは、まだ早い。
でも、現時点の彼女は「公安刑事には向ていない」と言わざるを得ない。
(長野で、交番のおまわりさんをやっているほうがよっぽど幸せだろうに)
そんな思いをうまく隠して、オレは頑なな横顔に笑いかけた。
黒澤
「やっぱり納得できませんか」
「だったら、もう素直に書くしかありませんね」
彼女は、ギョッとしたように顔を向けた。
サトコ
「書くって、まさかレポートにですか!?」
黒澤
「もちろんです」
「オレのやり方を見て、受け入れられなかったこと」
「自分が理想とするところ」
「そういうのをレポートにしてみてはいかがですか?」
(まぁ、本当にそんなことをしたら···)
(どうなるのかは、目に見えてるけど···)
石神
「···お前か、黒澤」
黒澤
「えー何がですか?」
石神
「とぼけるな」
「氷川にバカげたレポートを書かせたのはお前だろう」
黒澤
「えーひどいなぁ。とんだ濡れ衣···」
「ぶは···っ」
投げつけられた書類は、見事オレの顔面に命中した。
知らなかったけど、石神さんってコントロールが良かったんだな。
石神
「俺は、氷川について『報告をあげろ』と言ったが」
「『くだらないアドバイスをしろ』とは言っていない」
黒澤
「まぁ、そうですけどー」
「こっちとしても、まさか本当に書くとは思ってなかったですしー」
···嘘だ。
本音は「五分五分かな」と思っていた。
(だって、頑なだったもんなぁ)
脳裏に、先日の彼女の様子が浮かぶ。
反論する代わりに、ギュッとスラックスを握り締めていたあの手ーー
黒澤
「大丈夫なんですかね」
石神
「···なに?」
黒澤
「彼女、ここで···」
「というか、公安でやっていけるんですかね」
オレのボヤきに、石神さんは呆れたように眉をひそめた。
石神
「それを判断するために、お前に『報告をあげろ』と言っている」
黒澤
「ハハッ、そうでしたね」
「あー責任重大だなー」
石神
「······」
石神さんのもとをあとにしたオレは、ひとまずサトコさんを探すことにした
さすがに今回のことは、オレにも責任があるーー
というのは本音の半分に過ぎなくて、の頃に半分はこちらの勝手な事情のせい。
(今、愛想を尽かされるわけにはいかないからなー)
距離ができると、石神さんへの報告をあげにくくなる。
ただそれだけのこと。
もっとも、それは杞憂に終わった。
レポート再提出のことで、オレが謝ると
サトコ
「いえ、黒澤さんは悪くありません」
「悪いのは私です」
「私が···公安の仕事を受け入れられずにいるから···」
(ああ、頭ではわかっているのか)
頑なに、自分の主張が「絶対」だと思っているわけではない。
理想と現実の間で、動けずにいるだけなのだろう。
(まあ、そのハードルこそが大きいわけだけど)
同じ警察官でも、公安部を毛嫌いする連中は少なくない。
その「ハードル」を乗り越えられないからだ。
そして、おそらく彼女も···
サトコ
「私、『刑事になれる』って聞いて、この学校に来たんです」
「でも、ここで習うことはモヤモヤすることも多くて···」
(ほら、やっぱり···)
サトコ
「このまま、ここにいてもいいんでしょうか」
「こんな気持ちのまま、公安刑事を目指しても···」
顎のあたりで切り揃えられた髪の毛が、彼女の表情を隠す。
けれども、強く握りしめた拳は、あらわになったままだ。
(ああ···)
なんだかまぶしい。
でも、それはたぶん沈みかけている夕焼けのせいだ。
(そうだ、彼女自身がまぶしいわけじゃない)
生真面目でまっすぐで、青臭い主張のせいでは···
黒澤
「······」
その日の夜ーー
身動きできない満員電車の中で、オレはぼんやりと窓の外を見ていた。
(そうしちゃったかなー、オレ)
(なんでアドバイスとかしちゃったかなー)
ーー『今はあまり難しいことを考えないで···』
ーー『「私、刑事になりたい」だけで充分だと思いますよ。』
(···いやいや、ダメでしょ。「刑事になりたい」だけじゃ)
それなのに、彼女は最後に笑顔を見せていた。
オレの、いかにも「いい先輩」ぶった助言を受け入れた結果として。
(あんなつもりじゃなかったんだけどな)
(ほんと、どうしちゃったんだか···)
ブルル、とジャケットの中でスマホが震えた。
(ハイハイ、誰から···)
黒澤
「······」
すっ、と頭が冷えた。
着信者の名前を確認したおかげで。
(···そうだ、忘れるな)
(どうしてオレが、警察官になったのか)
電話はやがて留守電に替わり、ディスプレイ表示のものが消えた。
暗くなった画面には、虚ろな目をした自分が映っていた。
to be continued