【石神マンション】
警察関係者のパーティーが開かれた日の夜。
サトコ
「ふふ···」
石神
「ニヤけてる暇があるなら、さっさと寝ろ。明日も仕事なんだろう」
傍らで頬を緩ませているのは、将来は正式な同伴者として連れて行きたい女性。
彼女に惚れている自覚はあるが、ここまで周りが見えなくなるとは思わなかった。
(本当に···すまない、後藤)
後藤を部下にしてから、いろいろなことがあったけれど。
ここまで彼に詫びたのは、初めてかもしれない。
こんな事態になった原因はーー
そう、数日前から、少しずつ少しずつ···俺の心を蝕んでいたあの灰色の感情だ。
【警察庁】
始まりはおそらく、あの日。
後藤とサトコが警察庁の前にいるのを見た時だ。
後藤
「ほら、コレ。アンタの分」
サトコ
「ありがとうございます!疲れに嬉しい100%ミカンジュース!」
「ええと、130円ですよね。ちょっと待ってくださいね」
後藤
「ジュース1本、気にしなくていい。アンタもよく差し入れてくれるだろ」
サトコ
「じゃあ、今日はお言葉に甘えます!」
(···あの二人は、こういう会話をするのか)
あまり意識したことはないが、聞いてみると随分とほのぼのしたものだ。
(後藤は元から面倒見のいいタイプだ)
(同じ後輩でも黒澤が相手だと、こうはいかないが···)
笑う二人の横顔が脳裏にやけに焼き付いた。
【食堂】
それから数日後のこと。
今回の警察関係者のパーティーについて、警視以上の階級は同伴者が必須と連絡が来た。
ただでさえ面倒なところに、さらに···と思うが、上からの命には逆らえない立場だ。
(サトコに経験を積ませるという意味ではいい機会だと、とらえるしかないな)
パーティーの件を話そうと、サトコを探してい着いた先は食堂。
混雑した中でも、彼女を見つけるのは難しいことではなかったがーー
(隣にいるのは後藤か)
サトコ
「--」
後藤
「--」
(···後藤がああやって笑うのは、めずらしい)
何を話しているのかは聞こえないが、会話が弾んでいるのはわかる。
(このところ、仕事に追われて余裕があるようには見えなかった後藤が···)
楽しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
胸の奥が不自然な重さを感じ、何か灰色のものが心にジワリとシミを作る。
(なんだ、これは···)
不可解な感情をさらに意識したのはーー
石神
「···何かあったのか?」
サトコ
「え?」
石神
「後藤がめずらしく笑ってたからな」
サトコ
「ああ···いえ、大したことじゃないんです」
隠す意図も秘密にする気もないのは、十分にわかっているのに。
一度できたシミは簡単には消えなかった。
【石神マンション】
その日の夜。
俺はパソコンでドレスについて調べていた。
(連れて行く以上、それなりの服は用意してやるべきだ)
(サトコに似合いそうなものは···)
デザイン、色、丈···様々な点から、彼女に合うものを探していく。
検索し続けること数時間···やっと、気に入る一枚が見つかった。
(あとは、このドレスを取り扱っている店を調べればいい)
次の日の休み、共にドレスを買いに行くために。
万全の準備を整える。
(下調べをしておいたと言うのも何だ···当日は、何も言わずに選ぶとしよう)
今になって用意周到に調べたことを気恥ずかしく思いながら、パソコンを閉じた。
それから、心にできた灰色のシミはずっとそこにあり続けていた。
早く、その存在を消したい···そう思っていたのに、これをさらに助長したのがーー
サトコ
「今日気付いたんですけど、主役の俳優、後藤さんに似てますよね」
石神
「後藤に?」
サトコ
「はい。後藤さん、婦警さんたちに人気があるわけです」
サトコが後藤のことを思い浮かべる。
話の流れを考えれば、不自然なことは何らない。
それなのにーー
石神
「······」
(俺は何をイラついている?)
サトコ
「···あの、今夜は一緒に···」
蚊の鳴くようなサトコの声。
己の欲望に従うなら、このまま彼女を連れ帰りたい。
だが、それをしないのは刑事として先を行く者としての矜持か···
ただの融通の利かない石頭のせいか。
石神
「明日も仕事だろう。今日はゆっくり休め」
サトコ
「···はい。その方がいいですよね」
触れている温もりを手放すのに、こんなにも気力がいるなんて。
心にできた灰色のシミは徐々に色を濃くして、俺の思考までも蝕み始めていた。
【パーティー会場】
そしてパーティー当日。
サトコを迎えに行くとーー
石神
「······」
サトコ
「······」
(試着した時に分かっていたはずだが···)
こうして仕上げられた姿を見ると、やはり特別だった。
『綺麗だ』と、一言本当のことを言えばいいだけなのに。
石神
「···そろそろ警視総監の挨拶が始まる時間だ。急ごう」
サトコ
「は、はい!」
(それが言えないのが、俺だ)
(もし、これが後藤なら···)
(···何をバカなことを考えている)
渦巻くモヤを振り払うように、一度、強く目を閉じた。
人が集まる会場に連れて行くと、サトコが人目を引いているのが分かる。
着飾った彼女の雰囲気が変わるのは、知っている。
自分が選んだ “彼女に似合うドレス” を着ているなら、尚更。
黒澤
「今日のサトコさん、綺麗ですねー」
東雲
「 “馬子にも衣裳” 的な展開は、もうベタすぎない?」
颯馬
「ふふ、きっと石神さんも気が気じゃないでしょうね」
聞こえてくる声はいろいろだが、サトコが注目を集めているのは間違いない。
(思っていることを素直に口に出せないのは、俺だけではないだろう)
となれば、まさに颯馬の言う通りだと···周囲の反応を気にしていると。
後藤
「大丈夫か?」
サトコ
「後藤さん!」
聞こえてきたのは、後藤の声だった。
振り返れば、後藤の腕がサトコを支えている。
石神
「氷川、どうした」
掛ける声が強張ったが、幸いに気付かれない程度のものだった。
サトコ
「ちょっとバランスを崩してしまいまして···後藤さんに助けてもらいました」
後藤
「その靴で歩けるだけ大したもんだ」
石神
「そそっかしい奴だ。気を付けて歩け」
「これから挨拶回りに行く」
(慣れない靴で歩きづらいのは分かっていた)
(わかっていて、気にかけていたはずなのに···)
歩調を緩められなかったのは、正体不明の苛立ちが胸にあったからなのかもしれない。
(こうした感情は俺の中で処理するべきだ)
(サトコを困らせてどうする)
空回りしている負の気持ち。
心にできた灰色のシミはさらに広がり、ますます澱んだ色になっていくーー
努めて冷静に振る舞おうと心がけ、サトコを会場の目立たないところで休ませた。
(慣れない靴に堅苦しい挨拶···気疲れもしただろう)
身勝手な感情で彼女を振り回した自覚はあり、その埋め合わせを少しでもしたい。
そう思って離れたのだがーー
(ん?)
ひとり会場を回っている途中で見慣れた2つの背中が目に入った。
(後藤にサトコ···なぜ、後藤のジャケットを羽織っている?)
らしくもない感情が理性を上回る。
頭の芯がカッと熱くなるのが自分でも分かった。
けれど。
警察官僚A
「やあ、石神くん。久しぶりだね」
石神
「···ご無沙汰しています」
声を掛けられ、返事をしている間にも二人は会場を出て行こうとしている。
今すぐ追いかけろーーそう心が警報を鳴らすのに。
警察官僚A
「君に紹介したい人がいるんだよ」
石神
「······」
心の答えは出ても。
長年染み付いた悪しき融通の利かなさが、俺に仕事を放り出させなかった。
結局、途中で抜け出すことなく、挨拶を終えてから急いで会場を離れた。
(この船でサトコが行く可能性が高いのは、支度用の部屋だろう)
そちらに向かっていると、後藤がその部屋から出て行くのが見えた。
サトコの肩に掛けていたジャケットは羽織っていない。
石神
「······」
(後藤がサトコ相手に何かするわけはない···あいつのことは信頼してる)
関係を公にはしていないが、後藤、颯馬、黒澤には知られているのも同じだと思っていた。
(···万が一、後藤が気付いていなかったら···?)
颯馬や黒澤は特別察しがいい方だ。
だが、後藤はというとーー
(仕事となれば鋭い洞察力を発揮するが、プライベートにおいては周りに関心の薄い奴だ)
万が一···ーー普段なら、万が一は滅多に起こりえないことだとわかるのに。
胸の中で灰色から真っ黒になったシミは完全に俺の判断を鈍らせた。
客室のドアの前に立つと、ちょうど中からドアが開く。
石神
「···何をしていた」
サトコ
「秀樹さん!?」
目を丸くする彼女。
ここで冷静に話を聞かなければいけない···そう分かっていても。
サトコ
「すみませんでした!ちょっとしたアクシデントがあって···」
石神
「······」
(どうしてまだ、後藤のジャケットを羽織ってる?)
その姿を目の前にすれば、思考がどす黒いもので固まっていく。
サトコ
「今、会場に戻ろうと思ってたところなんです。あ、それで、この格好なんですけど···」
石神
「帰るぞ」
サトコ
「え?」
サトコが何か言っているけれど、それが頭に入ってこない。
今の俺にできるのは、唇を引き結んだまま、彼女の手を引くことだけだった。
石神
「······」
サトコ
「······」
港の近くでつかまえたタクシーに乗ってから、聞こえるのはエンジン音のみ。
先程、船でサトコが話をしようとした時、聞けなかったのはーー
(冷静に話をする自信がなかったからだ)
今も、その自信はない。
物事は冷静に分析し、自分の感情も俯瞰することに慣れているはずなのに。
どうしても、自分の心が見えない···広がった澱んだシミが覆い隠している。
サトコ
「······」
(泣きそうな顔をしている···)
今すぐただ抱きしめたい衝動と。
話を聞かなければ絶対に腕は伸ばせないと思っている意固地な自分と。
ふたつがせめぎ合い、どうすることもできない。
石神
「······」
(手首に赤い痕が···俺がつかんでいたところか···)
その痕が話を聞いてやれなかったことを責めているように感じるのは、己の罪悪感のせいだろう。
(サトコ···)
どうすればいいのか、自分でも分からなくて。
ただ、その赤い痕の上に···静かに手を置いた。
石神
「脱げ」
サトコ
「え!?」
石神
「いつまで他の男の匂いをさせているつもりだ」
家に帰るなり、彼女に投げた言葉。
なぜかジャケットを脱ぐことを躊躇うサトコに、視線も厳しいものになってしまう。
サトコは困った顔をしたまま、やっと肩から上着を外した。
そしてーー
サトコ
「これのことなんですが···」
石神
「これは···」
(ドレスにシミが···)
薄くはなっているが、そこには何かがかかった跡がある。
そして後藤のジャケットが掛かっていたのは、そのシミの上。
サトコ
「すみません。せっかく秀樹さんに買ってもらったドレスなのに···」
思考が止まり、その隙にサトコが事情を説明した。
話しは簡単なことーー後藤は困っているサトコを助けただけだった。
石神
「···そうだったのか」
(後藤がそういう奴だと、よく知っていたのに)
(俺は···)
サトコ
「もしかして、私と後藤さんの仲を···」
石神
「···余計なことは言わなくていい」
サトコ
「んっ···」
こんなみっともない気持ちを見透かされた恥ずかしさから、強引に唇を塞いでしまう。
( “恋” というのは、どこまで目を曇らせるんだ)
(俺だけは、こんな感情に振り回されないと思っていたのに)
唇に触れてしまえば、抑え込んでいた独占欲が溢れ出す。
今回の気持ちの根幹にあったものは、キスくらいで消えるものではなかった。
石神
「このドレスを脱がすのは、俺だけの権利だ」
全ての気持ちは、この言葉に集約される。
自分でも呆れはするが、これが嘘偽りのない本音だった。
(俺もまだまだ、訓練が必要ということだな)
冷静に状況を見極め、己の感情をコントロールする術を身につけなければならない。
“恋” という名の甘いものに振り回されることのないよう。
サトコ
「秀樹さんは、まだ寝ないんですか?」
石神
「···寝付ける気分じゃない。俺のことは気にするな」
サトコ
「秀樹さんも今日は疲れたと思うんだけどな···」
石神
「なぜ、そう思う」
いつの間にかサトコは俺の腰辺りに腕を回し、抱き枕のようにくっついていた。
サトコ
「ヤキモチって···妬くと疲れません?」
石神
「······」
サトコ
「ふふ、秀樹さんが妬いてくれたんですよね···」
何度も同じことを噛み締め、頬を緩ませている。
(何が、そんな嬉しいのか)
(嫉妬なんて、いい感情ではないだろう)
そう思うが、幸せそうにニヤけているサトコの顔を見れば何も言えなくなる。
サトコ
「もしかして、これまでもあったりしました?私が気付かないだけで···」
石神
「眠れないということは、もう少し疲れが必要ということだな」
サトコ
「え?」
身体を起こすと、もう一度サトコを組み敷く。
石神
「明日、仕事だというから、こちらも加減したが···」
「その必要はなかったようだ」
サトコ
「それって···秀樹さ···んっ···っ」
唇を塞ぎ、その首筋に顔を埋める。
まだ熱の名残が残る身体には簡単に火が点いていった。
(わかっているようで、まだまだお前は分かってない)
(俺がどれほど、お前に囚われているかを···)
いつか分かって欲しいような、ずっと知られずにいたいような。
アンビバレンツな思いさえも、今は彼女を求める衝動に拍車をかけて行った。
【警察庁】
そして週明け。
まず、今日必ずしなければいけないことはーー
石神
「後藤、コーヒーでもどうだ」
後藤への詫びの気持ちを表すこと。
後藤
「いただきます。いくらでしたか?」
石神
「気にするな」
(あとは昼に飯でも奢ろう)
(少しいい店に連れて行ってやる)
後藤
「···何か、俺に言いたいことでもありますか?」
石神
「いや、特にないが?」
後藤
「なら、いいんですが···」
当然、理由を説明することはできないが。
濡れ衣を着せてしまったことへの埋め合わせをして、
それでようやく今回の事態にケジメをつけられる。
心にできていたシミは、やっと薄くなり消えてくれそうだった。
Happy End