遺伝学の研究者・五ノ井慧悟博士の食生活を徹底的に調べることーー
それが私の津軽班の初任務だった。
(ここは五ノ井博士行きつけのレストラン)
(2日に一度、6食のうち1回は、ここで食事をする)
五ノ井博士を調べ始めてから4日目。
五ノ井慧悟
「有島という名で予約が入ってると思うのです」
ウエイター
「有島様ですね。奥にお席を用意してございます」
(有島···今日は誰かとの会食か)
五ノ井博士は今をときめく人なだけあって、様々な人に食事に誘われていた。
私は近くの席に座り、注意深く観察する。
五ノ井慧悟
「このコースを。メインはステーキで、ワインは···」
(コースをステーキで···五ノ井博士は夕食に必ず肉をとる)
(同じもの頼んで、細かい内容をチェック···)
スマホに記録していると、コツ···と硬い靴音が響いた。
その音に振り向けばーー
石神
「少し丸くなったんじゃないか?」
サトコ
「え···石神教官!」
石神
「もう教官じゃないだろう」
石神さんが私の前の椅子を引いて腰を下ろす。
サトコ
「あの···?」
石神
「俺も仕事中だ。1人より2人の方が怪しまれない」
サトコ
「どうして私も仕事だと···」
石神
「お前はひとりでこういう店に来るタイプではないだろう」
サトコ
「わかるんですか?」
石神
「2年もいれば、わかる」
メニューを開きながら石神さんは答える。
(見ていてくれてたんだ···石神さんは訓練生の私を見てくれていた)
(私を見てくれてる人はいる)
全く見てくれない津軽さんの下にいる今、石神さんの言葉は心に染みた。
(私を見て···)
サトコ
「···太ったって言いました?」
石神
「俺は魚にする。お前は?」
サトコ
「私はステーキの方に···」
「あ!」
(五ノ井博士と同じものを食べ続けたせいで太った!?)
サトコ
「······」
石神
「肉でいいのか?」
サトコ
「う···」
(ここからでも何を食べてるかわかるけど)
(一番正確なのは、やっぱり同じものを食べること)
サトコ
「···石神さん、私たちの仕事に正確さは必要ですよね?」
石神
「いいや」
サトコ
「え?」
石神
「厳密に言うならば」
「必要なのは正確なものだけだ」
サトコ
「···はい」
(この調査の意図が掴めなかったけど)
(もしこれで私の正確さが試されているなら···)
サトコ
「肉にします!」
石神
「わかった」
(私が戦力になれること、しっかり行動で示さなくちゃ!)
料理が運ばれてくると、見るからに私のほうが量もカロリーも多い。
石神
「全部食べるのか」
サトコ
「出されたものは残さず食べるよう育てられたもので」
石神
「ストレスは過食を引き起こす可能性もある」
「津軽の下で生き残るなら、極力あいつの関心を引かないことだ」
「あいつにストレスを感じないのは、この世で百瀬だけだからな」
(私のことを心配して···?)
サトコ
「大丈夫です。私が食べる原因は津軽さん···ですけど」
「ストレスもありますけど···」
石神
「···わかっていて食べるのか?」
サトコ
「ストレスで食べるわけじゃないので問題はないです」
料理のひとつひとつを確認しながら食べる私を見て、石神さんも察してくれたようだった。
石神
「これをやる」
石神さんがスッとテーブルに置いたのは···
(白い粉が入った袋!?)
サトコ
「石神さん、これは···」
石神
「胃薬だ。よく効く」
サトコ
「···ですよね」
石神
「いくつか持っておけ。胃に穴が空かないようにな」
サトコ
「ありがとうございます!」
(今夜、石神さんに会えてよかった)
サトコ
「···ありがとうございます」
石神
「たかが胃薬だ」
(私にはそれ以上の薬です)
(教官方に恩返しするためにも、津軽さんのもとで頑張ろう!)
調査開始から、ちょうど1週間。
(五ノ井博士の食事を毎食確認して、同じものを食べるのは大変だったけど)
(何とか21食分、調べ切った!)
忙しいせいか、基本的に外食かコンビニで買ってくる食生活だったから助かった。
これが自炊基本の人だったら、かなり大変だっただろう。
(間食、夜食も調べて、各食の栄養成分表も作った)
(博士の食生活について完璧なレポートになったはず···)
あとはプリントして束ねるだけ···
警察庁公安課で初めて朝を迎えた瞬間だった。
サトコ
「これが五ノ井博士の1週間の食生活です」
津軽
「どれどれ」
徹夜でできた目の下のクマをコンシーラーで隠し、津軽さんの前に立つ。
津軽さんは頬杖をついたままパラパラと報告書をめくり始めた。
(口頭での質問も想定して、答えは用意してきた)
(きっと大丈夫···)
津軽
「ふーん。なるほど···」
鼓動が脈打つ独特の緊張感のなか立っていると、
何度か頷いた津軽さんが顔を上げた。
津軽
「よく頑張ったね」
ニッコリと微笑む津軽さん。
綺麗な弧を描く口元につられて、私の口元も緩んだ時。
津軽
「本当に、君って子は」
笑顔のままで。
津軽さんは私の報告書を握り潰した。
サトコ
「!?」
津軽
「冗談を真に受けちゃダメだよ」
サトコ
「じょう···だん···?」
ぽいっと潰された報告書がゴミ箱に放られる。
ぎこちなく視線を移し、再び津軽さんに顔を戻すと。
津軽
「······」
(この人は···何を笑っているの?)
津軽
「化粧、下手だね」
サトコ
「は···?」
津軽さんが私を指差す。
それが目の下のクマを指しているのだと気付いたのは、一拍遅れてからだった。
津軽
「そうそう。 “ラブピュア” ステッキの電池入れる精密ドライバー」
「ちゃんと買っておいてね」
<選択してください>
サトコ
「···買っておきます」
(なに言ってるんだろ、私···)
長年の習慣化習性か···上司からの要望に無意識で首を縦に振ってる自分がいる。
津軽
「いいお返事」
サトコ
「···何を言ってるんですか?」
津軽
「いい?もう1回しか言わないよ?」
「 “ラブピュア” ステッキ用の精密ドライバー買ってきて」
サトコ
「······」
サトコ
「······」
津軽
「ラブラブ魔女ッコ、ラブリー★ラブピュア~♪」
視線は自然に下がり、視界から津軽さんが消える。
聞こえるのは席を立つ音と靴音···そしてーー
津軽
「ウサちゃん、ちょっと丸くなったんじゃない?」
「食べすぎ注意だよ」
サトコ
「······」
会議室のドアが閉まる音。
サトコ
「なに、これ···」
事態を理解するのに時間がかかる。
その間も身体は勝手にゴミ箱に放られた報告書を拾っていた。
(最初から捜査に出す気はないってこと?)
(それをわからせるために、こんな無駄なことを···)
サトコ
「···っ」
悔しくてテーブルを叩こうとして、それを堪えるためにポケットに手を突っ込んだ。
カサッとした感触が触れ、それは石神さんが暮れた胃薬の袋だった。
(···悔しい!)
目の奥が熱くなり、ぐっと奥歯を噛む。
(最低の上司、最悪の人)
(あの人のせいで泣くなんて、それこそ、冗談···)
津軽
「冗談を真に受けちゃダメだよ」
サトコ
「···っ!」
我慢できずに思い切りデスクを叩いた。
脳裏に浮かんでいるのは、あの人の笑顔。
あの笑顔はーー大嫌いだ。
to be continued