石神
「遅い」
サトコ
「石神さん!え、遅いですか?」
(予定では、私のあとから秀樹さんが乗ってくるはず···)
時計を見ると、出発時刻まではまだ余裕があると言っていい時間だ。
石神
「朝、起きたという連絡の時間から逆算すれば、もっと早く来られたはずだ」
サトコ
「それは···」
(寝坊しなかったことに安心して、少しのんびりしてたのは事実···)
石神
「時間があるのなら、現地になるべく早く入れ。情報を得る貴重な機会だ」
サトコ
「はい!」
そう、実はこのバスツアーは単なる旅行ではなく、捜査の一環。
(石神班からの応援要請で受けた任務···)
話しは数週間前に遡るーー
朝イチで津軽さんに呼び出された先は警察庁の会議室。
サトコ
「氷川、入ります!」
難波
「お、来たか」
サトコ
「難波さん!?」
津軽
「幽霊でも見たような反応だね。ま、実質今の難波さんは幽霊状態···」
石神
「津軽」
口を慎めとばかりに秀樹さんの鋭い声が飛ぶ。
難波
「ま、ひよっこの元気そうな顔も見れたし。後は頼む」
石神
「はい」
難波
「じゃあ、またな」
サトコ
「は、はい···」
軽く私の肩を叩くと、入れ違うように難波さんは会議室を出て行ってしまった。
(これは、どういう事態···)
石神
「俺から説明しよう」
津軽
「いや、俺から」
石神
「お前、任務の内容を把握しているのか?」
津軽
「秀樹くんが俺の耳元で囁いてよ」
石神
「時間の無駄だ」
(本当に···)
心の中で深く同意すると、秀樹さんが私の前に立った。
石神
「今回の任務は国の情報管理システムに関わっている、某IT企業の調査だ」
サトコ
「IT···ですか」
(応援として呼ばれるなら、私よりも東雲さんが妥当なような)
(それとも、もう呼ばれてるのかな)
石神
「分野外の話だと思っているだろうが」
(図星!)
石神
「お前に頼みたい仕事は、ある男と接触し、その男の携帯に不可視化盗聴アプリをDLすることだ」
サトコ
「不可視化盗聴アプリというと···」
津軽
「インストールされてもアイコンが出ず、入れられたことに気付かないやつだね」
「俺ってばナイスアシスト~。阿吽の呼吸だね、秀樹くん」
石神
「······」
肩を抱いてくる津軽さんを石神さんが黙殺するので、私も気にしないことにする。
サトコ
「その男というのは?」
石神
「IT企業の社長夫人の愛人だ」
「その男が夫人から企業データを盗んでいるという情報が入った」
サトコ
「なるほど。それで女手がいると」
石神
「それだけじゃない」
表情を引き締めた秀樹さんが私の手に1冊の華やかなパンフレットを乗せた。
サトコ
「 “豪華絢爛・花めぐりバスツアー” ?」
石神
「ターゲットの男と夫人がそのツアーに参加する」
「だが、問題がひとつ。そのツアーは現在定員満了で締め切られている」
「ツアー当日までにキャンセル待ちをして、二席分確保してくれ」
サトコ
「わかりました。あの、キャンセル待ちが出なかった場合は···」
石神
「出るよう願え。出なかった場合は、その時点でこの任務は失敗だ」
サトコ
「!」
(任務に取り掛からずして失敗なんて···!)
サトコ
「必ず席を確保してみせます!」
津軽
「点に運を任せるしかない仕事か···酷なことをするね。秀樹くんも」
石神
「氷川はこう見えて運がいいところがある。そこに期待している」
サトコ
「期待に応えて見せます!あ、大事なことをひとつ···」
石神
「何だ?」
サトコ
「二席分のもうひとりは誰が···」
(秀樹さんでありますように!秀樹さんでありますように!)
(秀樹、ひ・で・き!)
石神
「俺だ」
(よっし!)
サトコ
「私の下半期の残りの運、すべてつぎ込みます!」
津軽
「それって少なくない?」
石神
「期待している」
こうして怒涛のキャンセル待ちの問い合わせを続け、結果キャンセル席は再抽選になりーー
(当選の封筒が来たときは、神も仏もいると思ったっけ)
(引き寄せた運を無駄にはできない。絶対に、この任務は成功させる!)
石神
「···しかし、何だ、あの演技は」
サトコ
「え?」
石神
「退庁間際の話だ」
サトコ
「ああ···」
黒澤
「裏取れました。昨日の19時の予約ですね」
サトコ
「え、ちょ、あの···!」
颯馬
「その後に駅前のZAZAで新しい服を購入していますね。カードで」
サトコ
「あ、あー!もうこんな時間だ!定時退庁推奨週間でしたね!」
サトコ
「あれは、その···今回の任務に必要なことだったんですが」
「下手に説明するとボロが出そうだったので···」
(今回は石神さんと津軽さんしか知らない極秘任務だっていうから)
(頑張って隠したつもりだったんだけど···)
社長夫人の愛人に接近するには、
それなりに身なりを整えなきゃいけないと思ったところまでは良かった。
(だけど、あの対応はいただけなかったか···)
石神
「充分、ボロが出ている」
サトコ
「精進します···!」
石神
「···だが、この席を確保した件については、よくやった」
「お前の努力あってこそだ」
サトコ
「運がほとんどですけどね」
石神
「その運も努力が引き寄せたものだろう」
サトコ
「秀樹さん···」
(厳しいのが基本だけど、こうして認めてくれるから)
(秀樹さんの下なら、いくらでも頑張れると思える)
石神
「···来たぞ」
サトコ
「!」
写真で確認した熟女と若い男がバスに乗り込んできた。
社長夫人
「今日は1日楽しみましょうね♪」
男
「忘れられない日にしてあげるよ」
(ぴったり隙間なくくっついて···羨ま···じゃなかった。しっかりマークしないと!)
二人は私たちの斜め前の席に座る。
石神
「あの男は軽薄そうな女性がタイプのようだ」
「夫人にバレずに遊んでいるそうだから、お前でもチャンスはある」
“でも” という部分に若干の引っかかりを感じないわけでもないが、今は流しておく。
(軽薄そうな女性がタイプ···)
(携帯に盗聴アプリを仕込むためには、それなりに接近しなければ)
サトコ
「かなり近づかないといけませんよね」
石神
「あまり得意な分野ではないだろうが」
サトコ
「大丈夫です。成長したところを見せます!」
石神
「···あまり気合を入れすぎるな」
サトコ
「あ、かえって逆効果に?」
石神
「いや···」
秀樹さんが顔を正面に向けて、くっと眼鏡を押し上げた。
石神
「行き過ぎれば、仕事だと割り切るのが難しくなる」
サトコ
「え?」
石神
「いや、何でもない」
(今の···ヤキモチですか!?)
サトコ
「あの···!」
石神
「会話に耳を澄ませておけ。話題のきっかけをつかめる」
サトコ
「は、はい」
呟きの真相は聞けないままだったけれど。
(絶対に秀樹さんの期待に応えてみせる!)
私の心は、さらなるやる気に満たされていたのだった。
最初に立ち寄った先はバラ園が併設されているお洒落なサービスエリアだった。
(ここでまず知り合いにならなければ!)
夫人はお土産を見に行っていて、男は喫煙ブースで煙草を吸っている。
喫煙者だという情報をあらかじめ得ていた私は電子煙草の火を点けずに近くまで行く。
サトコ
「お天気に恵まれて良かったですね」
男
「あんた···バスに乗ってた」
サトコ
「うん。同じ年代の人って乗ってないかと思ってたから」
男
「ああ···熟年向けのツアーみたいだからな」
サトコ
「あなたがいて良かったと思って」
男
「俺も、あんたみたいな人がいて、ほっとしたかも」
ふっと男の表情が緩む。
(これはいい感触!)
サトコ
「ねえ、よかったら···」
社長夫人
「たっく~ん!いつまで煙草吸ってるの!」
男
「あ、ヤベ!ツレが呼んでるから、またね!」
「百合子さーん、今行きます!」
(上手く流れを作れそうだったのに!)
男は尻尾でも振るように夫人の方に行ってしまう。
その後も隙あらば男に接近しようとしたものの···
社長夫人
「たっくーん!」
男
「はいはい」
社長夫人
「たっくぅ~ん」
男
「なあにー?」
サトコ
「······」
(くっ、声をかけようと接近すると、すぐに呼ばれてしまう!)
(私、社長夫人に警戒されてる!?)
次の手を考えていると、不意に胸の奥辺りから不快なものが込み上げてきた。
(ちょっと気持ち悪い···)
石神
「苦戦しているようだな」
サトコ
「夫人の方に警戒されてしまって···」
「······」
石神
「どうした?顔に汗が滲んでいるぞ」
秀樹さんが綺麗にアイロンがけされたハンカチを貸してくれる。
サトコ
「すみません、ありがとうございます」
「あの男の香水の匂いが強くて」
石神
「ああ、バスでも充満していたな」
サトコ
「さっきの煙草の匂いと混ざって、少し吐き気が···」
石神
「向こうに座れ。冷たい水を持ってくる」
休憩スペースに視線を送る秀樹さんに首を振って応える。
サトコ
「大丈夫です!ここにいうちに、何とか次の段階まで進んでおきたいので」
石神
「無理はするなよ」
サトコ
「はい」
石神
「夫人に警戒されていると言っていたな」
「俺が夫人に隙を作ろう」
(隙を作るって、どうやって···)
さっと秀樹さんがその身を翻すとーー
石神
「花を見に来たはずなのに、どうやらもう一輪···」
「見逃せない花が、こちらにあったようですね」
社長夫人
「まあ!」
サトコ
「!?」
石神
「バラの中のあなたは、更に美しいでしょう。少しご一緒させていただいても?」
社長夫人
「もちろんですわ!」
秀樹さんはあっさりと社長夫人をバラ園の方に誘導していく。
(演技とはいえ、秀樹さんにあんな甘い言葉をかけてもらえるなんて羨まし···じゃなかった!)
(今のうちに男の方をつかまえないと!)
サトコ
「もうバラ見に行った?」
男
「ん?ああ、まだ。はー、事由になれたし。ね、一緒に行かない?」
サトコ
「いいよ。ね、その前に、あそこで売ってるバラソフトクリームを食べてみない?」
男
「お、インスト映えしそうでいいじゃん」
サトコ
「お店の前にバラの顔出しあるし、写真撮ってあげるよ」
男
「サンキュー。じゃ、頼む」
男のスマホが私の手に渡る。
(よし!あとは指定された不可視化盗聴アプリをDLするだけ!)
男
「こんなカンジ?」
サトコ
「もうちょっと左に寄って」
男
「こう?」
サトコ
「もうちょっと、もうちょっと···」
(もうちょっとでインストールが終わる···終わった!)
サトコ
「OK!いいカンジに撮れたよ」
(これで任務完了!)
男
「じゃ、ソフトクリーム、あっちで食べようぜ」
サトコ
「ええと···」
(律儀に2つ買って来てくれてる···)
秀樹さんの方をチラリと窺うと、あちらはあちらでまだ一緒にいる。
(秀樹さんも何か情報を引き出しているのかもしれないし、もう少し引き付けておいた方がいいな)
(急に立ち去って怪しまれてもよくないし)
サトコ
「うん、行こっか」
男
「いい場所見つけといたんだ」
男についていくのは、もう少し警戒した方がいい。
そう思い知るのは、それから数分後のことだったーー
to be continued