もうもうと煙が立ち込める中、誰かが私に覆いかぶさっている。
視界の隅に、ぽたりと滴る血が見えた。
サトコ
「···加賀さん!」
加賀
「···喚くな」
サトコ
「なんで···どうして」
砂埃の中、加賀さんは右腕を床について自分の身体を支え、私を庇っていた。
起き上がった私と入れ替わるように、その場に座り込む。
(おなか···血が)
(爆発の衝撃で、怪我を···!)
Pが持っていたのは、爆弾のスイッチだった。
この近くに仕掛けられていたらしい爆弾が作動し、P自身も衝撃で吹き飛ばされて気を失っている。
加賀
「···まだだ」
サトコ
「え···?」
加賀
「まだ、終わりじゃねぇ···」
加賀さんの視線をたどると、倒れているPの手に握られたスイッチがあった。
小さな画面に表示された時間が、1秒、また1秒減っていく。
サトコ
「まさ···か···」
加賀
「爆弾は、まだある」
「1個目を作動させたら、自動的に次の爆弾が時間差で作動する仕組みだ」
サトコ
「そん、な···どうすれば」
(またこんな爆発があったら、この建物はもたないかもしれない)
(建物は大丈夫でも、衝撃と瓦礫で捜査員たちは···)
(それに、加賀さんは···加賀さんはっ···)
サトコ
「骨折だってしてるのに···!どうして私を庇ったんですか···!」
「なんでそんなに、私をっ···私のために、ここまでしないでください!」
加賀
「テメェがどう思おうと関係ねぇ」
血でシャツが滲む腹部を右手で押さえ、加賀さんは僅かに呼吸を乱した。
加賀
「俺が、守ると決めてんだ」
「駄犬の分際で指図するんじゃねぇ」
(···私は)
私は、この光景を知っている。
男
『鬼だ悪魔だと恐れられる加賀も、結局女の前じゃただの男だ』
石神
『銃を下ろせ!』
加賀
『ーーサトコ!』
サトコ
『加賀···さん···』
加賀
『っ···無事、か······』
(···あのときも)
加賀
『···チッ』
サトコ
『······!』
江戸川謙造
『ぐっ···!』
加賀
『来るぞ』
サトコ
『加賀さっ···』
(あのときも···)
(いつだって、私を守ってくれる。無条件でーーどんなときも)
加賀
『俺は待たねぇ。お前が追いついて来い』
(そう言ってたはずなのに)
(たまに立ち止まって、振り返って···私が追いつくのを待っててくれる)
(公安学校の、頃からーー)
ふたつ目の爆弾が作動するまで、あと2秒ーー
それが1に変わる寸前、発砲音とともに銃弾がスイッチを弾き、作動が止まった。
加賀
「······」
構えた銃を下ろすのも忘れて、スイッチがPの手から離れて宙を舞うのを見つめる。
自分が撃ち落としたスイッチは、微かな音を立てて地面に落ちた。
何度練習しても、的を掠めることすらなかった銃弾。
それは今、まっすぐに小さな小さなスイッチを捉えた。
加賀
「······」
「···遅ぇよ」
サトコ
「···こっ、これでも頑張ったんです···!」
ーーそれがどういう意味を持つのか、加賀さんが分からない訳がなかった。
(···記憶が)
全ての記憶が、自分の中に戻って来た。
だからこそ、言える。
記憶があってもなくても、私は “ 私 ” なのだとーー
左手骨折、腹部損傷の加賀さんとともに、騒然となっている現場の外に出た。
何度も手を払いのけられながら、それでも諦めず加賀さんの身体を支える。
サトコ
「救急車で病院に行ってください!今すぐ!」
加賀
「怪我してる奴らがいるだろ。そっちを優先させろ」
サトコ
「加賀さんが一番重傷なんですよ!早くしないと···」
東雲
「兵吾さん、乗ってください」
外で待機していた東雲さんが、車を私たちのすぐ横につけた。
東雲
「オレが送迎しますから。それならいいですよね?」
加賀
「···ほっときゃ治るだろ」
サトコ
「治りません!死んじゃいます!」
加賀
「俺がいなくなったら、誰が指揮を執る?」
東雲
「もうすぐ津軽さんと石神さんが到着します」
「任せて大丈夫じゃないです?」
加賀
「貸し作んのか···」
サトコ
「そのくらいいいじゃないですか!東雲さん、急いで病院までお願いします!」
東雲
「はいはい」
「···ところで、キミが書き換えたパスワードって結局なんだったの?」
サトコ
「······」
すい···っと、ふたりから目を逸らした。
サトコ
「···言いたく、ありません」
津軽
「あはは!あはははは!!!」
「ひいーーー、おなか痛い!」
サトコ
「もう!津軽さん、笑い過ぎです!」
津軽
「だって···だってさぁ!」
オフィスに響く、津軽さんの笑い声。
その近くで、後藤さんは私を見ないようにしながら肩を震わせていた。
津軽
「パスワード···パスワード···」
「ギリギリのタイミングで書き換えたパスワード···」
「 “ daken ”···駄犬···!!!」
「そりゃ~わかんないよテロリストも政治家も!あっはっは!」
(もう!だから言いたくなかったのにーーー!)
後藤
「駄犬···」
「っ······」
チラリとこちらを見た後藤さんが、サッと目を逸らす。
サトコ
「後藤さん、見るならちゃんと直視してください!自他ともに認める駄犬の私を!」
石神
「······」
サトコ
「石神さん、かわいそうなものを見るような目は止めてください···!」
石神
「随分と調教されたものだな···」
百瀬
「···というより、開き直りに見えますが」
颯馬
「いいことですよ。信頼関係のたまものですから」
サトコ
「颯馬さんの聖母の微笑みが、こんなに辛いなんて···」
東雲
「······」
サトコ
「東雲さん、ドン引きしてます···?」
東雲
「普通、するよね」
黒澤
「いやいや、オレはサトコさんの気持ちが分かりますよ!」
「とにかく別の言葉に言い換えなきゃならない···」
「そんなときに浮かぶワードと言えば!」
サトコ
「ちなみに、黒澤さんなら···」
黒澤
「···“ goto ” ですかね」
後藤
「気持ち悪いことを言うな」
黒澤
「本気ですよ?」
後藤
「お前はタチが悪い···」
東雲
「キショ度は同じくらいだよね」
サトコ
「キショ度!?」
嘆く私の肩にポン、と手を置いたのは、ようやく笑いが収まったらしい津軽さんだった。
津軽
「今度からは、“ tsugaru ” にしようね」
サトコ
「嫌です···」
百瀬
「······」
(···百瀬さんなら、“ tsugaru ” にしそうだな)
私が設定したパスワードーー
“ daken ” によって守られたファイルは、ドングリとピーを追い詰めた。
(Pは逮捕されて、ドングリ党は分裂の危機)
(日本を揺るがす大事態···には、全然なってないみたいだけど)
世間の興味や話題は、ドングリとピーよりも、未だ江戸川謙造逮捕の方へ向いている。
結局、政党やテロリストすべてをひっくるめても、
江戸川謙造にはあらゆる意味で敵わなかったらしい。
(さすが、存在感が尋常じゃない)
(···その息子さんは、私にとってそれ以上の存在感だけど)
左腕骨折、腹部裂傷の怪我を抱えても、加賀さんは断固入院を拒んだ。
サトコ
「入院が嫌なら、せめて自宅療養とか···」
加賀
「じっとしてたら身体が鈍るだろ」
サトコ
「じっとしていないといけない怪我なんですよ、普通なら」
「あ、そうだ。これ、お返しします」
ストレスボールのポチを差し出しても、加賀さんはなぜか受け取ろうとしない。
じっと私を見つめた後、いつものように正面から顔を掴んできた。
サトコ
「突然のアイアンクロー···!」
加賀
「······」
サトコ
「加賀さん!?何かお気に召さないことが!?」
加賀
「······」
サトコ
「お願いです、せめて言葉で···!」
加賀
「···次忘れたら、捨てるぞ」
サトコ
「っ······」
顔が見えない状態で聞かされたその声は、息を飲むほど真剣で···胸が締め付けられた。
(···加賀さんも、もしかしてつらかったのかもしれない)
(あのときは自分のことで精一杯で、そこまで考えられなかったけど)
その声音が、何よりも加賀さんの気持ちを伝えてくれている。
そしてそれをちゃんと理解できることが、素直に嬉しかった。
サトコ
「はい!もう二度と!!忘れません!!!」
加賀
「うるせぇ」
ペシッと叩かれ、ポチを奪われた。
サトコ
「これでもう、ストレスゼロですね」
加賀
「ストレスの一番の原因が常に傍にいるから無理だろ」
サトコ
「それ、まさかとは思いますけど私のことですか?」
加賀
「ほかに誰がいる」
ポチをにぎにぎする加賀さんの横を、いつものように歩く。
当たり前の時間がこんなにも愛しいと、改めて感じた。
Good End