取調室のドアを開けると、びくっと純恋ちゃんの肩が跳ねるのが分かった。
基本的に常に怯えている。
蔀純恋
「あ···」
相手が私だとわかり、わずかながら気を緩める気配が伝わって来た。
蔀純恋
「よ、よかった···あの怖い人じゃないんだ···」
サトコ
「よろしく」
(ごめんね)
かすかに笑う純恋ちゃんに心の中で謝りながら、昨日作ったばかりの資料を開いた。
サトコ
「『お前は最低の母親によく似てる』」
蔀純恋
「···え?」
サトコ
「『クズの娘はクズ。ろくな育ち方はしない』」
蔀純恋
「!」
純恋ちゃんの頬が強張り、徐々にその目が見開かれていく。
私が淡々と読み上げるのは、近所の声と施設からの情報で得た、薔子さんの罵倒の言葉。
施設でも時折、気分が高ぶり混乱し、目の前にはいない純恋ちゃんに怒鳴りだすことがあるらしい。
サトコ
「『すぐに男に色目をを使うな』」
蔀純恋
「······めて···」
サトコ
「『おい、お前はバカだからーー』」
蔀純恋
「やっ、や!やめてぇぇっっ!!」
サトコ
「······」
金切り声が取調室に響き渡った。
ダンダンッとデスクが両手で叩かれる。
それから自分の髪に指を差し込むと、突き刺すような目で、こちらを見てきた。
蔀純恋
「······なんで······?」
サトコ
「これは、あなたがおばあさんから日常的にかけられていた言葉?」
蔀純恋
「知らない知らない知らない!」
「そっか···そっかだって私がバカだから···」
「?」
「??」
「?????」
純恋ちゃんが頭に爪を立てるのがわかる。
目はデスクの一点を凝視し、唇は震えている。
(これは···精神鑑定も必要かな)
蔀純恋
「おばあちゃんと···あの子たちと···私を買った男の人たちは···」
「バカだって私を···だから、私はバカなんだって···」
「でもバカじゃないよね!?だって···だって言ってくれたもん···!」
「ぃぃ言ってく······!!だからっ······」
「ンぅ···ぅ゛······わ゛かんな゛···」
「あ゛あ゛ぁん!も゛うっっっ!!や゛だぁ゛ーーーー!!!」
サトコ
「純恋ちゃん!?」
(やばい、舌噛···!?)
その可能性が過り、慌ててハンカチを取り出して噛ませようとした時。
ひたすら叫び続けていた純恋ちゃんの言葉がぴたっと止んだ。
蔀純恋
「······」
がくんと俯いてしまい、その表情はわからない。
細いうなじだけが蛍光灯の下、青白く映えていた。
蔀純恋
「バカでも···スミレをいらないって言わなかったの」
「バカなスミレのことを捨てないの···」
「利用されたって、好かれてなくたって、痛い目見たって、もうなんだっていいの」
「こんな···こんな、バカなスミレを捨てない、捨てないでいてくれる、優しい人なの···」
(···純恋ちゃんが縋るほど思ってる、その人は···)
<選択してください>
(茶円···か。脅されて利用されてるのかと思ってたけど、違う)
(彼女は自分の意思で茶円の役に立とうとしてる)
(売春は茶円のための金稼ぎ···か)
(津軽さん···なわけない)
(津軽さんが本気になれば、捜査で人を心酔させることくらいできるんだろうけど)
(今回は、茶円だ)
(彼女は自分の意思で茶円のために動いてた···存在価値を見出してもらうために)
(父親···じゃない)
(父親がいれば、父親的な存在がいれば、こんなことにはならなかったかもしれない)
(純恋ちゃんを心酔させたのは、茶円だ)
(彼女は茶円に存在を認めてもらいたくて、何でもするようになってしまった)
思い出す、あの蛇のような眼差し。
茶円
「女っていうのは本当に思い描いたように動いてくれる」
「そこが可愛くてたまりません」
(あの時、茶円が言ったのは純恋ちゃんのことだったんだ)
(でも、だったらどうして、薔子さんの話をした時、茶円を悪者にしたんだろう···?)
すると純恋ちゃんがデスクに両手をつき、乱れた髪のまま私の顔を覗き込んできた。
蔀純恋
「······誰だって、必要とされたいよ···?」
「必要とされないってことはさ、存在しない、いないも同じだもん···」
「ねぇ···?」
サトコ
「······」
常軌を逸したような瞳に背筋が寒くなる。
その空っぽな目は、以前ここで見た茶円の瞳とよく似ていた。
サトコ
「···純恋ちゃんは···必要としてくれるなら、誰でもよかったの?」
蔀純恋
「うん」
サトコ
「茶円でなくても?」
蔀純恋
「うん。でもスミレを必要としてくれたのは茶円さんだけだったから」
「だから知らない大人の男の人と、痛いことだって、してきたよ···」
「茶円さんが、スミレにしかできないことだって言ってくれたから」
その純粋無垢な笑顔は、教室で好きな人の話をしているようにも見える。
ーー“ 好きな人 ” の話を、しているからかもしれない。
蔀純恋
「あのババアは結局、スミレを捨てたんだもん···」
「だってクラブを始める前から···」
「······別にもう、もういいけど···」
「だから、せめて···茶円さんの役に立ってくれないと···!!」
サトコ
「······」
(傷ついてるんだ、この子は)
深い傷の上に新しい傷を重ねているのに、麻痺して気付いていない。
気付きたくないのかもしれない。
茶円のいない生活に戻るのが、怖いから。
(利用されてもいい···ってことは、彼女の善悪は茶円頼り)
(なら正論で向かったところで、意味がないよね)
(ここは茶円への気持ちは否定せずに、情報を引き出さなくちゃ)
警察は人を正しい道に導く存在のはず。
だが、公安刑事は時には人の気持ちを利用しなければならない。
サトコ
「純恋ちゃんのーー」
気持ちは分かった···と、続けようとした時。
取調室のドアが開けられ、入ってきたのは津軽さんだった。
(···何か失敗した!?)
津軽
「取引しようか、蔀純恋さん」
サトコ
「······」
交代だと目で告げられ、私は席を代わる。
蔀純恋
「···取引···?そんなこと言われても私、バカだから···茶円さんがいないと···」
津軽
「大丈夫。まずは、俺の話を聞いて」
「俺は、君の味方」
ことさら柔らかい津軽さんの微笑みと声。
パニックに近かった純恋ちゃんが、その笑顔に懐柔され、落ち着きを取り戻していくのがわかる。
津軽
「俺たちの本当の仕事はね、茶円くんを捕まえたり」
「茶円くんがしてることを取り締まることじゃないんだ」
蔀純恋
「···あ···えと···あ······う、ううん···?て、敵じゃないってこと···?」
津軽
「いい子だね、その通り。飲み込みが早くて助かるよ」
蔀純恋
「······」
津軽さんは穏やかな声で、嘘だと思わせない言葉選びで純恋ちゃんを肯定する。
(心を開かせるには、もっとも有効な手段。分かっていても難しいことなのに···)
津軽
「俺たちがほしいのは、君と茶円くんがやってた仕事に関する情報なんだ」
「JKビジネス···まあ、平たく言うと売春だよね」
「あ、これダメだよ?」
蔀純恋
「ぅ······」
津軽
「あはは。大丈夫大丈夫、言いたいのはそこじゃないから」
「あのね、誰がお客だったのか···その顧客情報がほしいんだ」
「それが手に入れば、他のことには触れない」
蔀純恋
「······ぇ···」
心を操る、津軽さんの声。
柔らかく優しい音は私の心まで錯覚させようとしてくる。
蔀純恋
「······えと···」
津軽
「うん。君の気持ちは、よく分かってる」
「あの人の役に立ちたいんだよね?」
「だけど、その力があるのかわからない。より追い詰めてしまうんじゃないかと怖い」
蔀純恋
「······」
純恋ちゃんの心を見透かし、代弁する言葉に彼女は小さく頷く。
津軽
「だから、俺たちが力になるよ」
「どうしてかというと、俺たちが追いたいのは茶円くんと君じゃなくて、その客だから」
「ここまではわかった?」
蔀純恋
「······はい···」
津軽
「うん、いいね」
「君が客となる男と、いつもどこで会ってるのか···それをお喋りしてくれたらいい」
「俺とは話しにくいなーって思ったら、このお姉さんでもいいよ。あ、あの『怖い人』もいるけど」
蔀純恋
「い、嫌です···その人だけは···」
津軽
「あはは、オッケー。でも簡単そうでしょ?」
「おしゃべりするだけで君の大切な茶円くんは解放される」
「そうしたら彼は、君のことをもっと好きになる」
蔀純恋
「···!ほんっ···ほ···!ホント···!?」
津軽
「うん。俺、嘘はつかないから」
完璧な笑みと心地良い声で、平然と綴られる嘘。
(この人が···茶円を、みすみす逃すわけがない)
蔀純恋
「そうしたら···茶円さんは···私を···褒めてくれますか···?」
津軽
「きっとね」
蔀純恋
「······」
純恋ちゃんが期待に溢れる目を伏せ、迷っているのがわかる。
ちらっと津軽さんから流される視線。
(後押ししろってこと···)
それはつまり···
ーー嘘を吐け、ってことだ。
初めて会った時、この子を助けたいと思った。
だけど今、この子を捜査の道具にしようとしている。
(だけど、これが私の仕事だ)
(津軽さんの目的を達成するため、捜査を進めるためにやらなきゃいけない)
愛する人の役に立ちたい···
妄信的にそう思っている純恋ちゃんの姿に、胸の底を嫌な感じに擦られる。
津軽さんを好きだったーー
今でも捨てられない恋心を持つ私が、彼の役に立ちたいと思っている私が。
2人は何が違うのだというように···心の奥から、こちらを見ている。
(違う···私と純恋ちゃんは違う)
(これは公安刑事としての判断だ)
(間接的に、これで純恋ちゃんを助ける···!)
苦さと罪悪感を呑み込んで、取り調べデスクの横に立った。
抜けた髪の毛がからまったままの純恋ちゃんの手に、そっと触れる。
サトコ
「純恋ちゃん、お願い。信じて···助けたいの!」
蔀純恋
「······あ···」
津軽
「このお姉さんも、茶円くんも言ってただろ?君はバカじゃない」
「だから、どうすればいいか、わかるはずだよ」
私が触れている方とは反対の手に津軽さんが指を伸ばした。
蔀純恋
「······私が!」
「わっ···私が···私が、男の人たちと会っていた場所は···」
純恋ちゃんがぎゅっと強く、その目を瞑った。
to be continued