【公安課】
先日解決した事件の報告書を作成していると、ふとタバコの匂いを感じた。
難波
「堅実な仕事ぶりで、何より、何より」
石神
「難波さん···お疲れさまです」
下がった眼鏡を押し上げ、手にしていたペンをデスクに置く。
難波
「ちょっとな。お前に頼みたいことがあってなぁ」
難波さんは手にしていた分厚い書類を俺に手渡してくる。
石神
「『公安学校新設要項』?これは···」
難波
「警察庁管轄の公安学校を極秘で作るって話だ」
「公安学校の実働は警視庁の公安課に握られてる今···」
「察庁の方にも、使える実働部隊が欲しいんだろう」
石神
「以前にも同様の話がありましたが、結局、失敗に終わっていたかと思いますが」
難波
「その失敗を踏まえて、今度こそ成功させようって上は考えてんだ」
「で、今回も教官にと、お前にご指名がきてる」
石神
「前回のことを考えれば、成果を残せなかった私は外すべきではないでしょうか」
難波
「いやいや。失敗したのは、お前のせいじゃないだろう。上が適当に考えていたからだ」
「お前の指導能力は評価されてる」
石神
「しかし···」
(上に行くまでは現場を経験し、この先得られない経験を得ておく···)
(今はまだ、その段階だ)
いつまでも現場第一の刑事でいたい―――そんなふうには、考えていない。
だが、上に行くことを目標にしている以上、経験を積める時期に積む必要があった。
石神
「自分は指導するより、現場でまだ学ぶことがあります」
難波
「そう言うと思ったし、俺もそうさせてやりたいんだけどな···」
難波さんは苦笑と共に、一枚の紙を差し出した。
難波
「長官直々の辞令なんだ」
石神
「つまり、すでに決定事項···ということですか」
難波
「そういうことだ。悪いな。俺もサポートに入るから、頼む」
石神
「···わかりました」
(上からの命令であれば、受け入れる他ない)
(追いたい事件もあるなか、現場から遠ざかることに不満は残るが···)
後進を育てることは、ゆくゆくは日本の未来を守ることにもつながる。
(そこから学ぶこともまたあるだろう)
決定事項であれば従い、その環境で最善を尽くすしかない。
(まずは。この分厚い資料の読み込みから始めるか)
携わるからには、以前と同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。
前回の資料を探し、それと見比べながらの事前準備が始まった。
数日後。
公安学校への正式な配属日が決まり、荷物の整理を始めていた。
(時間にすれば、警察庁にいる時間の方が長い)
(だが、学校にも個別教官室が用意されているという話だしな···)
仕事をする場所が二カ所になるというのは、大きな変化だ。
効率的に作業をするには、どうすればいいか···ファイルの配分などを考えていると···
莉子
「聞いたわよ、左遷の話」
石神
「木下···」
後ろから声をかけてきたのは、同期の木下莉子だった。
石神
「こんな時間に来ても、誰も残ってないぞ」
莉子
「秀っちに会いに来たんだから、いいの」
石神
「今、お前に依頼している件はないが?」
莉子
「はいはい、いつもの秀っちよね。用件がなきゃ、着ちゃいけないみたいな」
石神
「いい加減、そのだらしない言葉遣いを直したらどうだ」
莉子
「秀っちが教官に選ばれた理由が、ほんとによくわかるわ」
「いい先生になりそうだもんね」
石神
「······」
あしらっても去る気配のない木下に視線を上げると、彼女は薄い笑みを浮かべている。
(簡単に考えを読ませない笑い方···こういうところも変わらない)
仲間内でも本心を見せることなど滅多にないのが、この仕事。
そういった意味では、木下のようなタイプにも慣れてきた。
石神
「···話でも、あるのか」
仕方なく作業の手を止めると、彩られた唇の笑みは深くなる。
莉子
「公安学校、私は教官じゃないけど、講師として誘われてるの」
「他に、どんな人が呼ばれるのか···興味ない?」
酒を煽る仕草を見せながら聞いてくる木下を見れば、その意図は分かった。
(事前の情報収集も円滑に事態を進めるために必要なことだ)
石神
「わかった。どこにする」
莉子
「いつもの店でいいんじゃない?」
石神
「先に行っててくれ。机の上だけでも片付けておく」
莉子
「明日にすればいいのに。几帳面ね」
(そういえば、夕食を食べるのも忘れていた)
(ついでに腹に軽く入れておくか)
予定の半分しか終わらなかった整理を残し、木下との打ち合わせ場所に向かった。
【バー】
莉子
「秀っち、こっち」
石神
「外で、そう呼ぶなと何度言えばわかる···」
言っても無駄だとわかりながらも、無言で頷けるほど厚顔無恥ではない。
莉子
「教官になったら、生徒と飲み会とかするのかしらね」
石神
「ただの訓練生とは違う」
莉子
「そうよねー。生徒がみんな、秀っちみたいな堅物だった、どうしよう」
石神
「だったら、楽だな」
莉子
「ふふ、どうかな。秀っちみたいな人が苦手なのもいるの忘れた?」
カクテルを飲みながら意味深な寝顔を向けてくる。
同時に、頭に浮かんでくるひとりの男の顔。
石神
「···加賀か」
莉子
「一発で名前が出てくるなんて、やっぱり仲良しね」
石神
「致命的に気が合わないだけで、苦手意識の問題じゃない」
莉子
「かもねー。でも、その兵吾ちゃんと秀っちが先生になる学校って、いい化学反応示しそう」
石神
「···あいつが教官業務が引き受けたのか?」
にわかには信じられずに問うと、木下はからかうふうでもなく頷いた。
莉子
「長官からの直々の指名じゃ、さすがに断れなかったみたいよ」
(俺と同じというわけか···)
出来れば負いたくない教官業務だが、上からの命令を退ければ今後に響く。
(あいつもそれくらいの計算はしたようだな)
己を中心に世界を回そうとする···そんな加賀でも、やはり組織の一員なのだと内心苦笑した。
莉子
「楽しみね」
石神
「その話を聞いて、ますます憂鬱になった」
(公安捜査員を養成するための、警察学校···)
前回の失敗の要因がどこにあったのか――それが指導する側にあったのだとしたら。
(加賀のような狂犬を入れたことが、吉と出るか凶と出るか···)
ただ、決して穏やかな始まりにならないことだけは確信できていた。
【公安学校 教官室】
真新しい建物の匂い。
胸には礼儀として警察大学校の記念品である万年筆を挿している。
石神
「失礼します」
教官室のドアを開けると、鼻につく煙。
(新校舎の匂いも、たちまち消す気か)
軽く眉をしかめると···タバコを吸う一人の男の姿が見えた。
to be continued