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本編① 津軽7話

空は青く、雲ひとつない。

サトコ
「はー···」

(まっさらな空···何もない···カラッポ)
(津軽さんの頭もカラッポなんじゃないの?)

サトコ
「はあぁぁ···」

全身が重い。
新年度から張り詰めていた糸が一気に切れた。

(からかわれたり茶化されたり、報告書を捨てられるくらいは我慢できる)
(そこに、“私” がいるから)

けれどーー

サトコ
「名前も覚えてもらえてないなんて」

(それじゃ、存在してないのと同じ)

サトコ
「はあぁぁぁぁ···」

(辞めさせるために配属された?飼い殺しどころか完全に殺す気?)

???
「警察庁が揺れそうな溜息だな」

空と同じように穏やかな声だった。
休息にその声が懐かしくなって背後を振り返る。

後藤
休憩か?

サトコ
「後藤さん···」

後藤さんは缶コーヒーを手で遊ばせながら、私の隣に来る。
そしてそのコーヒーを私の頬にあてた。

後藤
甘くないが、一息入れろ

サトコ
「でも、後藤さんの分は···」

後藤
俺はあとでいい。デスクにまだストックがある

(後藤さんも一息入れるために、ここに来たんだよね)
(なのに···)

私にコーヒーをくれる後藤さんの優しさが今は深く深く沁みてくる。

サトコ
「···っ」

冷たい缶コーヒーを両手で握っていると、ツンと鼻の奥が痛くなってきた。

後藤
···何かあったのか?

後藤さんの声だけが聞こえる。
彼はきっと情けない顔の私を見ないでくれている。

<選択してください>

何もありません

(ダメ···今は優しくされたら···)

公安課内では他班のことには干渉しない。
今ここで何もかも話すのは公安刑事らしくない。

サトコ
「···何もありません」

後藤
本当か?

(う···)

再度聞かれると、ウソをつくのが苦しくなる。

サトコ
「ちょっとだけ···ありました」

後藤
そうか

優しさは毒です···

(こんな時に優しくされたら···)

何もかも話して助けを求めたくなってしまう。

サトコ
「後藤さんの優しさは毒です···」

後藤
そうか···?

サトコ
「はい」

後藤
···ここにいない方がいいか?

サトコ
「···いてほしいです」

後藤
わかった

石神班の入りたかったです

(愚痴みたいなことは言いたくないし、でもウソもつけない)

サトコ
「···石神班に入りたかったです」

ある種の本音を零してしまう。

後藤
石神さんの下も大変だぞ

サトコ
「それはわかっています。訓練生の頃とは比べ物にならない厳しさだっていうのも」
「でも···」

(少なくとも石神さんは私の名前を憶えてくれてる)

サトコ
「······」

後藤
まあ、それを聞けば石神さんは喜ぶかもな

サトコ
「······」

後藤
······

沈黙が落ちると、飛行機雲が流れた。
それが消えるまで私たちは空を見上げ···ややあって後藤さんが口を開く。

後藤
俺がここに来たばかりの頃は、アンタより散々だった
ワースト新人にはならないから安心しろ

サトコ
「公安のエースがワースト新人だなんて、誰も信じませんよ」

後藤
だが事実だ

声に惹かれるように顔を上げると、風に髪を揺らす後藤さんがいる。

後藤
卒業したからと言って関係がリセットされるわけじゃないんだぞ

サトコ
「後藤さん···」

スーツだけれど教官服が重なって見えた。

(今でも教官でいてくれるってこと···?)

柔らかな風が吹く。
それに誘われるように唇が動く。

サトコ
「何て言うか···津軽班でやっていく自信がないというか···」

後藤
俺だって津軽さんの下に配属されたら、やっていく自信はない

サトコ
「え···?」

後藤
だから安心しろ。百瀬を当たり前だと思うな

サトコ
「···あの班にいて息してるだけになっても···いる意味ってあるんでしょうか?」

後藤
津軽さんは無駄に息はさせない

サトコ
「即息の根を止められるってことですか!?」

後藤
いや、そうじゃなくてだな

後藤さんは私を宥めるように首を振る。

後藤
俺が言いたいのは、あの人は何を考えてるかわからないが

サトコ
「わかりませんか?」

後藤
ああ、わからない

キッパリと言ってくれる後藤さんに少し安心する。

後藤
だが、意味のないことはしない
無駄に息をさせないと言ったのは、本当に不要な人間は置かないという意味だ
···これからじゃないのか

後藤さんが言葉を探しながら真摯に伝えようとしてくれる。

(これから···か)

サトコ
「これから···が、あると思っていいんでしょうか?」

後藤
アンタ次第だろう

静かな瞳に見つめられる。
教官として私を導いてくれた眼差しは少しだけ···けれど、確実に私をどん底から引き揚げてくれた。

後藤
公安は万人に向いているとは言い難い。アンタの居場所がここなのか、断言はできない
だが···

その口元が綻ぶ。
彼の後ろに見えるのは爽やか青空。

後藤
この2年は決して無駄じゃない。俺はアンタを信じてる

サトコ
「教官···」

後藤
焦るな、新人

後藤さんは私の背を軽く叩いて屋上を出て行った。

(後藤さんは私を信じてくれてる。私も後藤さんのことは信じてる)
(それなら···)

サトコ
「津軽さんは意味のないことはしない。なら···」

捨てられた報告書。
無意味なことをされられたと思った五ノ井博士の食生活調査。

(あの調査にも意味があったってこと?)

サトコ
「······」

津軽
いい子だね。俺の···お人形さん

サトコ
「私は人形になんて、ならない」

後藤さんから貰った缶コーヒーを一気に飲み干す。
今はこの苦さがちょうどいい。
フッと息を吐いて気合を入れると、私は警察庁の中に戻った。

サトコ
「すみません、颯馬さん。助けていただいて」

颯馬
私もここで調べものがあったので、気になさらず

警察庁の資料室。
公安学校の資料室には慣れていたけれど、ここは勝手がわからない。

サトコ
「この膨大な資料の中で、あたりをつけてもらえただけでも大助かりです」

颯馬
向こうにいるので、何かあったら声をかけてください

サトコ
「はい」

私が探しているのは、五ノ井博士が所属している研究所ーー
遺伝科学生物物理学研究所に関する資料。
それらの資料がありそうな場所を颯馬さんが教えてくれた。

(卒業しても教官たちはいてくれる···2年の成果を無駄にはしたくない!)

ファイルが入った箱を積み、五ノ井博士関連の書類を取り出していく。

(津軽さんが時間潰しに出て行っただけにしては、資料が多い)
(公安課にこれだけマークされてるって···)

サトコ
「······」

颯馬
私はもう行きますが、問題ないですか?

サトコ
「!」

(3年前の調書···この研究所は、以前は公安の監視対象だった!)
(現在は経過観察レベルまで落とされて、監視からは外れてるけど···)

サトコ
「······」

颯馬
ふっ

資料室のドアが閉まる音がしたけれど、そちらに意識を向けることはできなかった。

(五ノ井博士の食生活を洗えと言われて、本当にそれだけしかしなかった)
(以前、監視対象であったことは少し調べれば簡単に分かることなのに)

一点だけを見て、周りを全く見ようとしていなかった自分に気付く。

(あの食生活調査に別の意味があったんだとしたら?)

私はスマホを取り出し、自分で作った報告書を確認する。
それを広げている資料と照らし合わせていくとーー

サトコ
「これって···!」

新たな事実が目の前に浮かんできた。

to be continued

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